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【壬癸の怪】 雨音・足音

連日30℃を超える猛暑日が続く、今年の夏。

クーラーの冷気も届かないキッチンで、嫌になるくらい汗をかきながら家族の夕食を作る。

少しでも風を入れようと開けた小さな窓からは、願うほど風は入ってこない。

ガスレンジからの熱に辟易しながらフライパンを動かしていた時、ふっと鼻先を水の匂いがかすめた。

やがてパタタタというコンクリートの廊下に雨粒が打ち付ける音が聞こえてくる。

ああ、やっと降ってきた。

少しは風も出てきたようだ。

ほっと一息ついた時。

アパートの廊下を歩く足音が聞こえてきた。

ぺちゃ ぱちゃ ぺちゃ ぱちゃ……。

こんな雨の中、お隣さんが慌てて帰宅したのだろうか?

―― ピンポーン

玄関のチャイムが鳴り響いた。

我が家への集金だろうか?

慌てて玄関ドアの小さなレンズを覗いて確認する。

が、チャイムを鳴らしたであろう人物の姿が見えない。

間違い? それともイタズラ?

そう思ってドアに背を向ける。

間髪おかずに、再びチャイムが鳴る。

1度、2度、3度 ―― 繰り返し鳴らされるチャイムの音が雨音を遮って耳に突き刺さる。

不審に思ったのか、奥の部屋から娘が顔を出した。

恐る恐る覗き窓に目をつける。

……だが、外には誰もいない。

きっとイタズラに違いない。

質の悪いピンポンダッシュのようなものか。

叱りつけてやろうと思い、鍵を開けてドアノブを回す。

細くドアを開けて見るが、やはり廊下に人影はない。

さらにドアを開けて廊下を見渡そうと、ドアノブを握る手に力を込めた瞬間。

「ダメ! お母さん、ドア閉めて!」

切羽詰まったような娘の声に、思わず何事かと振り向いた。

「早く! ドアを閉めて! 早く!!」

必死の形相で訴える娘に気圧されて、私はドアを閉めた。

完全に閉まる、その一瞬前。

いつもと違う、何やら妙な手応えを感じた。

カチリ、と鍵のかかる音を聞いて、娘が長い息を吐き出した。

訳が分からず娘に仔細を尋ねると、真っ青な顔をしてこう言った。

「ドアの下から女性の顔が部屋の中を覗いてた。廊下に寝転ばなくちゃ、あんな格好で顔を出すのはムリだよ。ソレがドアを開けて入ってこようとしてた。ドアを閉める瞬間、ソレの手が挟まって……消えたんだよ」

この娘の言葉を聞いてから、雨降りに聞こえてくる足音が苦手だ。

雨降りに鳴らされるチャイムは、もっと苦手だ。