誂え

 実家で母が着物のリメイクをしている関係で、私も縫製をほどいたりする手伝いをしている。
 大切にされてきたものは、手にとった瞬間に分かる。伝わってくる優しさが「ああ、これは大切にされてきたんだな」と穏やかな気持ちにさせてくれるから。
 ただ、やはり洋服などと違って思い入れのある物であるから、色々と不思議な体験をしたりもする。
 そんな話をしていきたい。

 ある日、父が知り合いから頼まれたと1枚の振り袖を持ち帰ってきた。
「娘さんのために誂えたんだけど、着れなくなったからリメイクして欲しいって」
 世の中が「バブル」という目に見えない狂騒に浮かれていた頃、娘の成人式にレンタルではなく振り袖一式を購入する家庭も多かった。実際、2人以上の娘さんがいる家庭などは、それぞれの成人式に振り袖をレンタルするよりも、買ってしまったほうが安かったという事もある。
 そして娘が嫁いでしまった後、着る人のいなくなってしまった振り袖をリメイクするというのは、取り立てて珍しい話でもない。今回持ち込まれた着物も、きっとそういったシロモノだろうと、私と母は預かった振り袖を広げてみた。
 赤い地に大輪の牡丹の花が描かれたその振り袖は、一見して大層良い品だと言う事が分かる。鋏を入れてしまうのが勿体無いくらいだ。
 道具箱の中から使い慣れた糸切り鋏を取り出すと、パチン、と縫い糸を切った。

『……イ』

 ふと、何かが聞こえたような気がする。周囲を見回しても、誰もいない。父は仕事に出かけて戻ってきていないし、母はキッチンで夕飯の支度をしている。西日が差し込んでくるこの部屋にいるのは、私だけだ。
 きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせて、私は再び糸切り鋏を動かした。

 シャクッ プツッ
『アノ……ヒ……イ』

 シャキッ プッツ
『ワ……シノ……』

 鋏を入れるたびに、囁くような声が聞こえる。いや、耳から入り込んでくるのではない。私の頭のなかに言葉が浮かんでは消える。もちろん、私の思考ではない。
 不思議に思いながらも、次の鋏を入れようとした瞬間。

ぐにゃり

と、部屋が歪んだ。
 座っていても姿勢を維持できない程の目眩。思わず手をついて体を支えた。
 これでは刃物は使えない。鋏を置くと大きく息を吸った。目を閉じてじっとしていると、少しは楽になった気がする。だが今度は、眼の奥からじんわりとした痛みがやってきた。
 今日はこれ以上、作業をしないほうがいいだろう。大事な生地を痛めしてしまうかもしれない。

(このままにしておくと、シワになってしまう)

 頭痛が酷くならないうちに、私は振り袖を衣桁に掛け、刃物を片付けると部屋を出た。

(ダメだ、痛みが増してる)

 ジクジクとした痛みが額の方へ広がってきている。細かい縫い目を解いたり、じっと座って作業をするため、肩凝りや頭痛はよくあることだ。ただ、こんなにいきなり痛みがやってくることはなかったのだが。

「お母さん、ちょっと頭痛がするから休むね。今日は夕飯はいらないや」

「あら、大丈夫なの? 貴女の分は冷蔵庫に入れておくから、お腹すいたら食べなさい」

「うん、ありがとう」

 これまでの経験からして、少し横になっていれば治まると思うのだけど。
 自分の部屋に戻ると、ため息をついてベッドに潜り込んだ。目を閉じると、そのまま眠りの淵に引き込まれる。

『あの人はどこ?』
『あの人に会いたい』

 誰かの声がする。悲しい、切ない響きのする声。

『どこにいるの? あの人に会いたいのに』

 闇の中に何かが浮かび上がってきた。これは夢なのだろうか?
 ここは……私の家だ。そして、先程まで作業をしていた部屋だ。見慣れた光景の中で、一箇所だけさっきと違うところがある。
 シワにならないようにと衣桁に掛けた振り袖が、畳の上に落ちている。うねるような赤い生地が光っている。波打つ大輪の牡丹が盛り上がったかと思うと、着物の袖口から白い手が伸びた。

『こんなに会いたいのに。どうして側にいてくれないの? 私の事を忘れてしまったの?』

 切なかった声に恨みが籠もり始めた。袖口から伸びた腕が、何かを、誰かを探し求めるように蠢き始めた。細い指先を飾った赤い爪が、バリバリと畳を引っ掻く音がする。

『会いたい、会いたい、会いたい、会いたい……』

 畳の上にわだかまっていた着物が、ぐぐぐっと持ち上がった。果たして、その奥から何が現れるのか。
 固唾を呑んで見守る私の思惑に反して、振り袖の奥から現れたのは闇だった。周囲の夜の暗さよりなお黒い、凝ったような闇。どんな恐ろしい姿が出てくるのかと戦々恐々としていた私は、ほんの僅か安堵した。
 だが、その闇から聞こえてくるのだ。恨みを含んだ怨嗟(えんさ)の声と──魂を抉(えぐ)るような啜り泣きが。

『あんなに約束したじゃない。私を愛していると言ってくれたじゃない。一緒にいてくれると言っていたのに!』
『私を忘れるなんて! 私を捨てるなんて!』
『許さない、許さない、許さない許さない許さない!』
『会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい……』

 きっとあの闇の奥で、滂沱(ぼうだ)の涙を流している女性がいる。信じていたモノに裏切られて、憎しみに埋もれてしまった人がいる。
 袖口から伸びた腕は、縋るべき誰かを探して空を彷徨っている。

(ああ、なんて哀しい……)

 甲高く、風の音に紛れるような泣き声を耳にしながら、私は再び眠りの淵へ落ちていった。

 翌日から三日間、私は熱を出して寝込んでしまった。
 鼻水や咳などの症状はなく、ただひたすらに高熱が続いた。心配した母が何度も様子を見に来てくれたようだが、その度に私は意味不明なうわ言を呟いていたらしい。
 往診に来てくれたかかりつけ医にも、原因は分からないと言われたそうだ。

 ただ──。

 父が、あの振り袖の謂れを調べてきてくれた。
 あの赤地に大輪の牡丹をあしらった豪奢な振り袖は……ある家の娘が結婚式の時に着る予定だったものだそうだ。
 諸事情から大々的に披露宴などを催すことが出来ないため、せめて素敵な振り袖で送り出してやろうと、娘の両親が誂えた品物だった。その着物を大変に気に入った娘は、最愛の相手と結婚できる日を指折り数えて待っていたらしい。
 しかし、式を間近に控えたある日。
 娘は事故が原因で寝たきりになってしまった。それを知った相手側が、一方的に破談にしてしまったというのだ。既に婚約・結納を済ませ、親戚にも連絡をしてしまっている。今更、破談になどされては娘が可哀想だ。娘の両親は裁判も辞さないと相手側に詰め寄ったらしいが、

「うちの息子に、一生お前の娘の世話をしろというのか!」

と心ない言葉を投げつけられて取り合ってもらえなかった。結納金は手切れ金代わりにくれてやる。その代わり、二度とうちと関わるな。告げられた言葉に、娘はせめて一度、婚約者に会わせて欲しいと懇願したが聞き入れられなかった。
 全てに絶望した娘は、衝動的に処方されていた薬を全て飲み下し自殺を図った。両親が気付いた時には、部屋に飾られた振り袖の前で、娘は吐瀉物にまみれて事切れていたそうだ。

 娘が袖を通すことのなかった振り袖を、両親は見るに偲びなく手放したということらしかった。
 その話を聞いた母は、何か思うところがあったのだろう。
 一人で着物の縫製を解き、振り袖から美しいドレスに作り直した。他の作業を全部放り出し、ただひたすらにミシンに向かった。

 燃えるようなドレスが仕立て上がった日。私の熱は嘘のように下がっていた。
 マネキンに着せられたドレスを目にした瞬間。私は涙が止まらなくなってしまった。どうしてだか分からない。ただ、涙が溢れて止まらないのだ。

「あの振り袖は貴女の物。でも振り袖の形のままだと、貴女の想いもどこへも行けないでしょう。だから別の形に作り直したの。これは貴女だけの物。他の誰にも渡さないから、安心して眠りなさい。そんな実のない男の事なんて忘れて、新しい自分になって生まれ直してきなさい」

 母はそう言って、私の背中をポンポンと叩いてくれた。


 結局、そのドレスは元の持ち主の家族に返した。

「このまま燃やして灰にするか、せめてお墓に納めてあげて下さい」

と伝えた母に、深々と頭を下げて娘の両親は「そうします」と言ってくれたという。

「どうして、あんな事を言ったの?」

 涙が止まらなかった、あの瞬間。母が私の背中を叩いた時、確かに自分の中から『何か』が出て行ったのを感じていた。その事を母に問いただすと、何度か同じような経験をしたことがあると教えてくれた。

「正絹はね、人の想いが長い時間残るのよ。それも誂えなんて、どれだけの思い入れがあるか想像もつかないわ。蚕が命を削って繭を作り、やがて美しい成虫になるように、あの振り袖をまとって最愛の人の妻になる事を夢見た娘さんを思うと切なくってねぇ。それに、あの着物をリメイクしても、絶対に誰も使えないわよ。だから、こうする他はないの」

 私が高熱を出したのは、きっと彼女の気持ちに触れて引きずられてしまったからではないかということだった。

「蚕が命をかけて作り出した糸だからこそ、絹はあんなに美しいの。その美しさには、やっぱり命が宿っているのよ。着物だけじゃない。大事にされたものには人の念が宿る。だから中途半端な気持ちで触れると大変よ」

 そう教えてくれた母の顔は、少し誇らしげだった。