【庚申の怪】ケ イ タ イ デ ン ワ
傘をさしても全身に降りかかる雨にため息をつきながら、待つ人もいない自宅への帰り道を急ぐ。
長いので有名な信号に引っかかってしまい、何度目になるか分からないため息をついた時、すぐそばで電子音が響いた。
辺りを見回すと、横断歩道脇の植え込みから音がする。
しゃがみ込んだ視線の先にライトを点滅させながら震える、1台の携帯電話を見つけた。
植え込みの下だったこともあり、思ったほど雨に濡れてはいなかった。
落としたことに気付いて、焦って電話をかけてみたのだろう。
困っているのだろうな、と思って受話ボタンを押して耳にあてた。
聞こえてくるのは、ザーッというノイズ。
こちらから何度呼び掛けても、返事はない。
面倒になってどこか濡れない場所に置いていこうかと思い始めた時、受話器の向こうから声がした。
よく聞き取ろうと携帯を耳に押し付けた瞬間、はっきりとした声が響いてきた。
『あなたの髪の毛、とても綺麗ね』
低い、低い──密閉されたどこかの空間から響いてくるような、篭った低い声。
『あなたの髪の毛、ワタシに頂戴』
その言葉が耳に入ってくると同時に、頭皮に鋭い痛みが走った。
慌てて携帯を離すと、その動きにつれて自分の髪が引っ張られた。
とっさに目を向けた携帯の画面には、髪の毛をしっかりとくわえた、灰色に変色したカサカサに乾ききった唇。
手の中の携帯電話を放り投げるのと、灰色の唇がくわえていた髪を噛み切るのは、ほぼ同時だった。
濡れた路面に落ちた携帯は途端にグニャリと形を変え、ブワサッと広がる黒い糸状の束になった。
──いや、糸ではない。
ウゴウゴと生物のように蠢くソレは、大量の髪の毛だ。
息を飲み、立ちすくんでいる間に蠢く髪の毛の束は側溝の穴へと吸い込まれていった。
一部分だけ妙に短くなってしまった髪に手をやりながら、あの不気味な髪の束の中に自分のモノが含まれているのかと思うと、こみあげてくる吐き気を止めることが出来なかった。
了