宿直草「甲州の辻堂に化け物のある事」

 元和五年の冬、三十歳ばかりの人が語るには

「私が幼い時分、とある修行僧が我が家にやってきて話をすることには『自分の生国は伊賀の甲賀でございます。若い時には近江出身の侍宅に奉公しておりました。
 その方は武田家中にお仕えしておられましたが、たびたびの戦により家運も尽き始めていると考え、密かに私をお呼び寄せになり

『重ねて戦になれば、もはや私の命もあるまい。その時には、せめて妻だけでも助けてやりたい。仕えてくれる者は多くあれど、みな東者(あずまもの)であって都には不案内であろう。お主は上方の者であるから、妻を明日密かに連れ出して京へ逃してほしい。妻はただ今、懐妊中であるから落ち着く先までしかと見届けておくれ』

とお申し付けになりました。
 私は最後のご奉公に何としても主と共に戦に赴きとうございましたが、戦うだけが忠義の道ではないと再三に説得され、主の想いに従った次第でございます。
 主命により家内の誰にも何も告げず、ただ奥方と二人で旅立つと決めた日、今生の名残に腰に差したる刀を差し出し

『これは我が家に伝わる家宝であるが、道々の用心に持って行くが良い。もしも腹の子が無事に生まれ、成人した暁には父の形見であると伝えて欲しい。万が一、この命があれば私も必ず後を追い京へ向かうゆえ』

と名残惜しげに別れを告げました。
 私は泣く泣く奥方の手を引いて、都へと旅立ったのでございます。
 心は急くままに京への道を上っていったのですが、慣れぬ道に加え妊婦を連れた道行は厳しく、なかなかに道程ははかどりません。わずかばかりの道を進んでは、休むをくり返し、いよいよ産み月というのに未だ都へは辿り着けずにいたのです。
 ある日には敵軍が陣を張っている海側の道を避け、脇道へ入ってゆきました。しかし鄙びた険しい道を進んでいるうちに、どことも知れぬ山の中に迷いこんでしまい、すっかり道を失ってしまったのでございます。
 さらに悪い事に奥方の体調が思わしくなく、気遣いながら休み休みいくうちに、申の刻になろうとする頃、ようやく大きな辻堂に辿り着くことが出来ました。辺りに人家も見えず、さてどうしたものかと思案しておりますところ、五十ばかりの男が大きな荷物を担いで通りかかりました。
 担い茶屋だと申す男に水をもらい、奥方に薬を差し上げましたが、とうとう出産が始まってしまい先へ進むことが出来なくなってしまいました。
 男に事情を説明しましたところ、

「それはそれは、大変にお困りのことでございましょう。ここより先は里もなく、一番近い里へゆくにも三里ばかりかかります。またこの辻堂には化け物が出るとの噂があり、夜になると誰も近寄ろうとは致しません。私が住まいする所は、この山の彼方、十町余り先になります。ここへ来るにも朝は五つ過ぎには来たり、暮れは七つ以前に代えるようにしております。この場所はあまりにも悪すぎる。どうぞ私の家へおいでなさいませ」

と優しく言葉をかけてくれ、途方に暮れていた私には大変に嬉しい申し出でございました。ただ奥方はすでに一歩も先へ進める状態ではなく、男の誘いに甘えることは出来ませんでした。

「さすれば、これらをお貸し致しますので、どうぞお使い下さい」

と、茶釜や敷物、茶碗、手桶などを残し、

「薪はあちらに御座います。どうぞお好きなだけお使いになり、火を絶やさぬようになさいませ。くれぐれもご用心めされよ。私もここに残りたくは思いますが、家(うち)の者達が心配しますのでこれでお暇(いとま)いたします」

と頭を下げて帰ってゆきました。
 かくして、夕暮れ近くなった頃、奥方は無事に女の赤子をご出産なさいました。ともかく赤子を取り上げ、手近な衣(きぬ)に包み、奥方の懐に抱かせ、私は持ち歩いておりました米で粥を作り、ささやかながら夕餉を食しました。
 あまりにも侘しいので焚き火をながめ、これからの事を思い煩っておりました。
 夜半の過ぎた頃、十六歳ばかりに見える娘がどこからともなく現れ来たりまして、

「そこにいるのは誰か」

と問いかけますれば、

「私は昼間、ここを通り掛かりましたる茶屋の娘でございます。父の話を聞き、あまりにおいたわしく、何かお手伝いできることがあればと思いまして、まかりこしました次第でございます」

と娘が答えました。
 果たしてそれが本当なのかと疑っておりましたが、水を汲み、火を焚いて私たちをいたわってくれたので、つい気を許してしまいました。
 これが運の尽き、後悔してもしきれるものではございません。
 しばらくしてこの娘が

「まずはその御子を私へお渡し下さいませ。夜が明けるまで私がしっかりと抱いておりますゆえ、貴方様もお休み下さいませ」

と気遣いをみせてくれました。
 奥方もすっかり疲れきっておりましたので、赤子を娘の手に渡し少しでも体を休める事が出来るように致しました。
 娘は赤子を大事そうに抱きながら

「これはこれは、よき御子でございます。まるで玉のようではございませんか」

などと言っている姿を油断せずに見張っておりましたが、連日の旅の疲れもあり、いつのまにか壁に背中を預けて居眠りをしてしまいました。
 すると奥方が

「ああ、恐ろしい! あの娘が我が子を喰ろうておる!」

と叫ぶ声で驚き飛び起きました。私が刀を抜いて立ち上がりますと、娘は赤子を抱いたまま堂の外に逃げ出したのでございます。
 逃がすものかと追いかけたのでございますが、娘は空を駆け、飛び去ってしまいました。心はいかに急くとも、羽も持たぬこの身が空を飛ぶ訳もなく、口惜しい思いを噛みしめるしかございません。
 再び奥方の叫ぶ声が聞こえてまいりましたので、慌てて堂内に駆け戻りましたが、堂内のいずこにも奥方の姿はなく、ただ天井裏から

「ああ、悲しや」

との声が聞こえるばかりでございました。やがて、その声もすっかり聞こえなくなってしまいました。
 ただじっと耳を澄ましておりますと、四、五人程の者達が何かを食っている音が聞こえてまいりました。その中に、

「あの男も連れて来い」

という、しゃがれた声が聞こえます。それに答えて

「あれは名のある刀を持っておりますので、触れる事ができませぬ」

と先ほどの娘の声がいたしました。

「ならば、これがその方の分よ」

と聞こえてくる声は、どれも知らぬものばかりで凄まじい恐怖を感じたのでございます。

 せめて奥方だけでもお助けしたいと天井に上がる道を探しましたけれど、どこにもそのような道は見当たりません。
 どうすることもできず、ただただ悔しい思いをするだけ。主に奥方と御子を頼まれていたにも関わらず、その命を果たすこともできず、せめて腹を切ってお詫びをと思い二度、三度と刀を抜きましたが、夜が明ければ天井に上がる事もできるかもしれない、そこで化け物を見つける事が出来たなら、せめて一太刀浴びせて仇を打たねばならぬと心を決め、恥を偲んで夜を明かしたのでございます。

 やがて朝になりますと、昨夜の担い茶屋の男がやってまいりました。さてはこの男も化け物かと怪しみましたが、そのようなことはございませんでした。
 ことのあらましを話し聞かせれば、男は

「なんという事か」

と嘆き悲しみ、

「私も大変に心配していたのでございます。いつもより早く朝餉を済ませ、こうやって参りましたが。お力になれずに申し訳ない」

と共に涙を流しましたが、

「まずは天井裏を見てみましょう」

と言います。
 あちこちと探し回してみますと、

「ここから上がることができるようです」

と天井裏に至る道を見つけ出しました。茶屋の男の力を借り、ようやく天井裏に上がってみますと、化け物と思われるモノの姿はありませんでした。しかし、そこいらには人の骨が積み上げられ、安達が原もかくやという有様でございました。
 そこらを見回しますと、奥方とおぼしき屍が散り乱れておりました。肉は残らず食いつくされており、頭や手足の骨があるばかり。
 昨夜まではつつがなくお過ごしであったお人が、このような姿に成り果ててしまわれるとは。何の因果でこんな無残な目に合わねばならぬのかと、泣く泣く奥方様の骨を拾い集め、その骸(むくろ)を一包みにして茶屋の在所まで運びました。
 村の寺にて形ばかりの葬式を終え、装束などを布施として納めさせて頂きました。

「世が世であれば丁重にお弔い差し上げ、黄泉の旅路への品々もきちんと揃える事が出来たというのに。この世はままならぬ事ばかりでございます。どうぞ神仏のお慈悲をもって、懇(ねんご)ろに弔って差し上げてくださいませ」

と寺に頼みおき、茶屋の男にも礼を言い、奥方の白骨を首にかけ、さてこれからどうしたものか。主の元へ帰ろうか、それとも都へ上ろうかと思案が定まらず迷っておりますうちに、武田家の武運も潰(つい)え、家臣の方々も皆討ち死にしたという噂が聞こえてまいりました。
 ならば我が主の命もあるまいと、諦めて都に上がることに致しました。しかし奥方の縁(ゆかり)を調べようにも詳しい事は何も分からず、もはやこれまでかと京の黒谷の墓所へ奥方の骨を埋葬したのでございます。
 主の名刀を布施として寺に差し出し、私もそこで髪を落としました。出家し、ただ主人夫婦の菩提を弔って過しております。
 このような事、思い出すも恥ずかしいことではございますし、言葉に致しきれないことでもありますが、武士(もののふ)でもない身の上でございます。今回の厚きご縁に触れ、懺悔の物語りを語らせて頂きました」

という事なのでございました。