深夜タクシー

久し振りに高校時代の友人と飲みに行った帰り。思い出話に花が咲き、店を出た時には自宅方面への終電はとっくに出てしまっている時刻だった。
「うちに泊まりに来ればいい」と友人の一人が声をかけてくれたが、最近結婚したばかりだと知っていたので、流石にそれは辞退させてもらった。新婚の亭主が飲んで遅くなるだけでも、奥さんからしたら腹立たしい事だろう。その上、見も知らぬ酔客を伴って帰るなど……。独身の自分でさえ、その後の修羅場が容易に想像できると言うものだ。
 友人達と別れ、タクシーを拾おうと大通りへ足を向けた。いつもなら空車のランプを点らせた車両を何台も見かけるというのに、いざ自分が利用しようとすると、これがなかなか捕まらないものである。たまに通り掛かる車は、全て「賃走」だ。
「こりゃ、まいったな。駅まで歩いて、ビジネスホテルにでも泊まるしかないかな?」
 そんな気になり、駅に向かって歩き始めようとした時。視界の端に赤い「空車」の文字が飛び込んできた。このチャンスを逃すまいと、勢い込んで手を挙げる。
 緑色のボディカラーをした車体が、目の前で停まった。開かれたドアから車内へ乗り込み、自宅近くの通りの名前を告げて、安堵の息をついた。運転手は低い声で返事をすると、ドアを閉めて車を出す。静かなものだ。エンジン音とタイヤが道路を噛む走行音だけが車内に響いている。
 運転手は何も話しかけてはこない。たまに、やけに愛想のいい運転手がいたりするが、こちらにその気がないのに、やたら話しかけられて閉口する時もある。特に酒の酔いが回っている今日のような時は、静かに寝かせてくれるのが有り難かった。
 どのくらい走ったのか、気持ちよくうつらうつらしていた体に、車がブレーキをかける気配が伝わった。
(ああ、信号かな?)
と目を閉じたまま考えていると、背中を預けているシートの奥から「ドンッ」という衝撃が伝わってきた。
「え?」
と思わず目を開き、振り返ってシートをまじまじと見つめてしまった。
 何の変哲もない、よくあるタイプの座席。白いカバーのかけられた背もたれ。そっとその表面に指を這わせてみる。特に異変は感じられない。
「お客さん……どうかしましたか?」
 運転席から低い、感情のこもらない声が尋ねてくる。
「い、今、何か背中に……」
 視線を前に戻すと、バックミラーの中に運転手の青白い顔が映っていた。その目からは生気が全く感じられない。ただひたすらに、暗い。
「背中が、どうかしましたか?」
「あ、いや、気のせいだろう」
 再びシートに背中を預ける。だが、先ほどの感覚が蘇ってきて、どうにも気持ちが悪い。あれは、そう、ちょうど映画館で背後の座席から蹴飛ばされたような……。
 またしても背中に不気味な衝撃を感じた。ビクッと振り向いた俺に気付いたのか、運転手が張り付いたような無表情でミラー越しにこっちを伺っている。
「な、なあ、運転手さん。このタクシー、トランクに何か積んでるの? さっきから背中にドンドン当たってくるんだけど」
 黙っているのも気味が悪く、俺は少し冗談めかした口調で問いかけた。その試みが、成功しているかどうかは別として。
 ハンドルを切りながら運転手がじっと鏡の中から俺を見据えている。
「いえ、別にこれといった物は積んでいませんが」
「そうなの? なんだろうなぁ、まるで蹴っ飛ばされているような感じがするんだけど」
 鏡の中運転手は何も答えない。
「まさか、死体でも積んでるんだったりして……」
 得体の知れない空気を笑い飛ばそうと、とんでもない冗談を口にした時だった。
 鏡の中運転手の目が、三日月のように細くなっているのに気がついた。何の光も湛えていない、底なしに暗い目。その目がまるでデフォルメされたピエロの目のように、三日月形になっているのだ。
(笑っている!?)
 背筋に冷たい汗が流れた。今、どこを走っているのだと前方に視線を向ければ、ちょうど交差点の信号が赤に変わったところだった。
「ああ、運転手さん! ここまでで、いいですよ!」
 思わず大きな声を出してしまった。一秒でも早く、この車内から逃げ出したい。この訳の分からない、気味の悪い空間にいるのは耐えられない。車が停止するのも待たず、俺は荷物の中から財布を引っ張りだすと、メーターに表示されている金額の確かめずに札を数枚、叩きつけるようにキャッシュトレーの上に載せた。
「おつりは……」と言いかける運転手に、「いらないから!」と告げてタクシーを降りようとした。
「お客さん」
 背中を向けた俺に、陰気な声がかけられる。俺は反射的に振り向き、運転手を見てしまった。そこにあったのは──きゅぅぅううっと口角を吊り上げ、三日月型の目をして笑う運転手の顔だった。白い手袋に包まれた右手の人差し指を吊り上がった口の前に立てている。
『誰にも言うなよ』と言う事か。
 転げ落ちるように車外に飛び出る。目の前でドアが閉まり、タクシーはライトを点滅させながら走り出した。
 交差点を曲がる瞬間。ウインカーに照らされて、トランクの縁から黒く細長いヒモの束のような物が動いているのが見えた。ぞわり、ぞわりとうねりながら、ゆっくりとトランクの内側へ引き込まれていくのは、長い、大量の黒髪だった。
 俺はその場にへたりこんだまま、後続の車にクラクションを鳴らされて、ようやく我に返る。一体何が起こったのか理解が追いつかず、ぼんやりと機械的に足を進めていた俺は、ある事に気が付いて戦慄した。
 あの運転手……ずっと鏡越しに俺を見ながら運転していたのだ。俺がタクシーに乗り込んでから、さっきの道で降りるまで。ずっと、ずっと、俺から目線を外さずに。
 寒気と怖気が一気に全身を襲い、立っていることも出来ないほど足が震えた。とてもではないが、一人暮らしのアパートに戻る気にはなれない。夜が明けるまでの数時間を、一人で過ごすのは無理だ。ガクガクする両足を励まし、俺は近くのファミレスへ向かい、始発電車が動き出す時間まで過ごす事にした。
 あの夜以来、俺は夜のタクシーに一人で乗ることが出来なくなってしまった。万が一、あの運転手に出会う羽目になったらと思うと、恐ろしくてならないのだ。
 そして今でも、考えてしまう。

 果たして、あのタクシーのトランクには何が入っていたのかと……。