宿直草「女は天性肝ふとき事」

津の国、富田庄(とんだしょう)に住んでいる女が、隣の郡(こおり)の男の元へ通っておりました。
男の家までは一里あまり、辿り着いたからと言ってゆっくりと過ごす時間はございません。
男の家まではしっかりとした道のあるわけでもなく、細い田んぼの畦を心細く感じながらも、他者の姿を見咎めては吠える里の犬や、人々の好奇の目を避けるように露に濡れた道を辿ったのは、ただただ恋のためでありました。

女が通う道の途中には「西河原の宮」という非常に深い杜がございました。
そこを越えるためには一本の小川があり、小さな橋がかけられております。
ある夜、女がいつものように男の元に向かっていると、例の小さな橋がなくなっています。
どうしたことかと川の上流へ、下流へと渡れる場所を探しておりますと、浅瀬に一人の男が仰向けに倒れて死んでいるのが見えました。
これは幸いと、女は死人の体を橋代わりにして小川を越えたのです。
ところが男の死体は女の着物の裾に食いつき、離そうとしません。
仕方なく男の死体を引き剥がし、急ぎ足で一町ほど歩いていった時、女はふとこう思いました。
「あの男はすでに死んでいるのだから、心があるはずがない。なのに、なぜ私の着物の裾に食いついたのか?」
そして男の死体を放置した場所へ戻ると、わざと自分の着物の裾を死人の口に入れ、先程と同じように胸板を踏んで川を渡ると再び死人の口はぐっと着物の裾を噛み締めたのです。
「これは、もしかして?」
と思い足を上げると、死体の口元は緩んで着物を離します。
「思った通りだ。死んでいる人間に心なんてあろうはずがない。足で踏んだり、足を離したりすると、口が開いたり閉じたりするのだ」
と納得し、そのまま恋しい男の家へと向かいました。
男の家で枕を交わし、寝物語に死人に遭遇した話を聞かせると、男は大変に驚き愕然とし、その夜以降、女を遠ざけるようになったと言います。

確かにそれはもっともな話であります。
いかに恋した女とはいえ、誰がこのような行いをする者と添い遂げたいと思うでしょうか。
生来、女は男よりも肝が太いと申します。
そこを隠して女らしく振る舞う方が良いのです。
似合わぬ手柄話や、恐いものはない等と言う人は、たとえ恋しく思ってくれる相手がいたとしても興ざめしてしまう事でしょう。
身分の貴賎によらず、物怖じしない女は宜しくない。
それが身分の尊い方なら尚更でしょう。
女は松虫や鈴虫などの小さな虫を見ても「ああ、怖い」等と怖がってみせるくらいが丁度いいのです。