宿直草「猟人、名もしれぬものをとる事」

紀州日高郡に住んでいた猟師が一人で山に入り、鹿を誘い出すために鹿笛を吹いていると、向こうのススキ原でかさこそと動くものがありました。
鹿が隠れているのだと考えた猟師がさらに鹿笛を吹き鳴らすと、この音につられたのか何者かもこちらへと近付いてきます。
下草をかき分け、猟師が静かに鉄砲を構えて待っておりますと、相手と自分の距離が七、八間(十二、三メートル)のところまで縮まりました。
そっと覗き見れば、そこには三尺(約九〇センチメートル)ほども幅のある巨大な顔が、口を三尺ばかり開き、真っ赤な舌を長く伸ばしています。
背の高さはせいぜい一尺四、五寸(四二~四五センチメートル)くらいではありますが、まるで大蛇が真正面から迫ってくるように思え、ここでうかうかしていたら飲み込まれてしまうと考えた猟師は、咄嗟に手にしていた鉄砲を放ちました。
弾は見事に相手に命中し、谷へ転がり落ちていきましたが、その姿は猟師が思っていたよりもかなり短いように見えました。

『これは蛇ではない。正体を確かめなくては』と猟師は考えましたが、やはり恐怖の方が勝っていたので、その日は諦めて帰る事にしました。
翌日、友人を誘って谷へ出向いた猟師は、そこに死んでいる巨大なヒキガエルを発見したのです。
このヒキガエル、全身に鱗をまとい、二尺四、五寸(七二~七五センチメートル)もある尻尾を持っていました。
腹には蛇のような蛇腹まであり、一体これは何なのか誰にも分かろうはずもありません。
これが古より伝わる妖怪「蟇(ひき)」と呼ばれる物なのかと思われましたが、こちらは「蟹よりも小さきモノ」とも書き記されている事から、「蟇」でもないという結果に落ち着きました。
この怪しい生き物は身も皮も役に立つ部位はどこにもなかったため、そのまま打ち捨てられることになったという事でございます。