宿直草「摂州本山は魔所なる事」

 摂津の国にある天台宗北山霊雲院本山寺は毘沙門天の霊境でございます。
 山城の鞍馬寺、河内(かわち)の信貴の山と合わせまして日本の「三大毘沙門」と言われております。

 雲たなびいて寺院を彩る垂衣(たれぎぬ)が鮮やかでございます。月が澄んで人々の祈りを込めた燃灯の絶えることがありません。深い谷に囲まれ、そびえる峰々が左右に続いております。
 この場所にあって天子様の治める治世の安らかなる事を祈り、煩悩無き世界への解脱を求めて大いなる光明を掲げるのでございます。
 そしてまた、この場所は隠れなき「魔所」でもございました。

 その麓、川久保という里に二人の狩人がおりました。二人はある夜、狸を打ちに出掛けて行きました。
 一人は弓矢を持ち、もう一人は樫の棒を手にしております。相棒の犬を連れて夕暮れに里を出て行きましたが、夜が更けていってもまだ獲物を手にする事が出来ませんでした。
 このまま手ぶらで帰るのも悔しいので、いつもは毘沙門天の怒りを恐れて近寄らぬ本山寺の方まで足を延ばしたのでございます。
 険しく登りづらい坂道を進んで参りますと、連れていた犬が急に怯えだし、狩人の股の下に隠れてしまいました。
 やって来るのは猪か狼か、弓に矢をつがえ、棒を構えて用心しながら進んで参りますと、坂の真ん中に身の丈八~九尺、炭のように色の黒い頭に白い鉢巻をした何者かが、一丈ほどの棒を置いて眠っているように見えたのでございます。
 二人との間は十間(18メートルほど)ばかり、見つけたと言えどもどうすることも出来ず、ただ静かに後退り、里まで十余町の坂道を石につまづき、転び転びようやく家に帰りつくことが出来たのです。
 お互いに顔を見合わせ「今のモノを見たか?」と、恐怖に息を震わせながら話し合いました。
 それより以後、二人は夜に狩りに出かけるのを止めたという事でございます。

※尺=約0.30メートル
※丈=約3.03メートル
※間=約1.8メートル
※町=約110メートル