マアトとゲレグ─ウソとまことの物語─

 これは太陽神ラーが若く力に満ちて、地上の王として君臨していたころ。ヘリオポリスの9柱の神々が、直接人間の訴えに耳を貸していたころの話です。
 あるところに「マアト(まこと)」、「ゲレグ(ウソ)」という名前の兄弟が住んでいました。二人は何もかもが正反対で、マアトは真面目で正直、働き者で目鼻立ちの整った美男子でした。弟のゲレグは嘘つきでずる賢く、怒りっぽくてそれほど美男子ではありませんでした。
 ある時、マアトは自分のナイフをなくしてしまったことに気がつき、弟のゲレグに貸してほしいと頼みました。自分より優れている兄を快く思っていなかったゲレグは、しぶしぶマアトにナイフを貸し出します。ところがマアトは、このナイフもなくしてしまったのです。それを聞いたゲレグはマアトを責め立てました。
「兄さんだからと思って大事なナイフを貸してやったのに、それをなくしたって言うのか! あのナイフはこの世に二つと無い貴重な物だったんだ。刃の部分はめったに採れない貴重な金属を含んだ石を使い、握りの部分はコプトスの木を削り出して作り、ナイフを納める鞘は神々の神殿のデザインに似せて、革ひもは神牛の皮から作り出した特別な物だったんだぞ、どうしてくれる!?」
 マアトが弟から借りたナイフはそんな特別製の物ではなく、どこにでもある「普通」のナイフでしたが、ゲレグは自分の意見を変えることはありませんでした。困り果てたマアトが、自分の財産の中から相応のものを選んで持っていってもいいと言っても、ゲレグは納得しません。とうとう「神々の法廷に訴えて、兄さんを裁いてもらう」と言い出しました。
 マアトは「何事においても公平な神様であれば、きっと正しい判断をしてくださるに違いない」と考えていましたが、実際にはそう簡単にはいきませんでした。
 ゲレグは法廷に並ぶ神々の前で、兄がどれだけ酷い人物か、自分がどれだけ兄に苦しめられてきたか、ありもしないウソを並べ立ててマアトを非難しました。マアトは弟の言い分に反論しようとしましたが、あまりの出来事に頭が回らず、うまく言葉が出てきません。神々はマアトに向かって、ゲレグの言っていることは本当なのかとたずねましたが、口のうまい弟にかなうはずもなく、ただ「自分はそのようなことをした覚えはありません」とくり返すだけです。ゲレグはそんな兄の姿に気分を良くし、さらに神々に訴えました。
「このようにまともに反論できないことこそが、罪を認めているようなものです。どうかこの男の両目をえぐり出し、財産を取り上げ、卑しい身分に落としてやってください」
 そこで神々の下した判決は、ゲレグの主張通りにマアトの両目をえぐり、全ての財産を没収してゲレグに与え、これまでの身分を剥奪するというものでした。
 ゲレグは目の見えなくなったマアトを自分の屋敷の門番にして、毎日つらく当たりました。しかしそんな兄の姿を見ているうちに、段々と嫌気がさしてきたのです。
「いっそのこと、命を助けたりせずに殺しておけばよかった」と考えたゲレグは、召使いにマアトを砂漠の猛獣の巣に置き去りにしてくるようにと命じました。これを聞いて驚いた召使いたちは、どうにかしてマアトを助けようと、ゲレグの住む土地から遠く離れた場所まで彼をつれて行き、わずかな食料と水を持たせ「どうか親切な人が通りかかりますように」と祈りながら、その場を離れました。
 一人取り残されたマアトですが、幸いにも通りかかった親切な美しい貴婦人に助け出されました。悲しみにくれるマアトを哀れに思った貴婦人は自分の家に連れ帰り、門番として働くことになりました。やがて貴婦人は、真面目で心清く、一生懸命に働くマアトに恋心を抱くようになります。マアトも、自分を助け出してくれた貴婦人に好意をもっており、二人の間には元気な男の子が生まれました。しかし身分の違いを気にしたマアトが、子供の父親だと名乗り出ることはありませんでした。
 息子は成長し、両親譲りの美しい少年となりました。学校でも優秀な成績をおさめていましたが、それを妬んだ友達から「お前なんか、父親がいないくせに生意気なんだよ!」とからかわれてしまいます。少年から自分の本当の父親は誰なのかと問い詰められた貴婦人は、正直に自宅の門番をしているマアトがそうだと答えました。それを聞いた少年は驚き
「たとえ正式な結婚をしておらず、身分の低い門番だったとしても、私の父親であることに違いはないでしょう。これまでできなかった分の親孝行を、これからさせてください」
とマアトを屋敷内に招き入れ、上等な衣服を着せ、主人の椅子に座らせて「彼こそが自分の父親である」と発表しました。
 そうして一緒に暮らしているうちに、マアトが卑しい身分の出身ではないということに気がつきます。少年はマアトに向かって「どうして門番になったのか?一体、何があったのか教えてください」と問いかけました。少年の熱意に負け、マアトは弟ゲレグの企みによって身分も財産も視力も奪われ、今のような境遇になったと説明しました。父の話を聞いた少年は腹を立て、絶対にマアトの名誉を回復しようと誓いました。
 少年は母である貴婦人に頼んで一頭の立派な牡牛をつれて旅に出ました。たどり着いたのは、ゲレグの所有している農場です。少年は一人の牛飼いを見つけると
「どうしても出かけなくてはいけない用事があるので、自分のつれているこの牡牛を預かっておいてほしい」
と頼みました。牛飼いは少年の身なりが上等なので、きっと良家のお坊ちゃんなのだろうと考え、信用して牛を預かることにしました。
 少年の姿が見えなくなると、農場の主人であるゲレグがやってきました。宴会に出す良い牛を選ぶためです。そこで少年が牛飼いに預けていった牡牛に目をつけました。
「なんとまあ、素晴らしい牛がいるじゃないか。今日の宴会にはこの牛を出すとしよう」
 しかし、この牛は預かりものです。牛飼いは事情を説明して、他の牛を選ぶように主人に言いました。それを聞いたゲレグは「旅人が帰ってきたら、他の牛を与えればいい。自分がこの牛にすると決めたのだから、大人しく牛を渡すのだ」と、無理やりに牛をつれて行ってしまいました。
 しばらくすると少年が農場に戻ってきて、預けた牛を返してほしいと言いました。そこで牛飼いは、自分の主人であるゲレグが牛を持っていってしまったこと、代わりの牛を選んでほしいことを伝えました。これこそが、少年の狙っていたことだったのです。
「あの牛はこの世に一頭しかいない、とても貴重な牛だったんだぞ! あの牛の代わりなんていない。僕はお前の主人を訴えてやる!」
 こうして少年は、かつてゲレグがマアトにしたのと同じように神々の法廷に訴えました。その場で少年はこのように主張しました。
「僕がつれていた牛は、その角がナイル川の流れをまたぎ、毛並みは美しく、よく太った、それはそれは素晴らしい牛だったのです。その牛に代わるものなど、どこを探してもいるはずがありません」
 少年の言葉を聞いてゲレグは「そんな牛など存在するはずがない!」と反論します。すると少年は
「では刃には貴重な金属を含んだ石を使い、握りはコプトスの木から削りだし、鞘は神殿のデザインに似せ、革ひもは神牛の皮から作ったナイフなど、あるわけがないじゃありませんか。僕の父マアトは存在しないはずのナイフをなくしたと、この男に訴えられて罰を受けました。僕の主張がウソだというのなら、あなたが僕の父を訴えた罪もウソだったと認めるんですね?」
 ようやくゲレグは、これがどういうことなのかを理解しました。そして神々は少年の訴えを聞き入れ、マアトに罪がなかったことを認めたのです。
 神々はゲレグに奪われていたすべての物をマアトに返しました。もちろん身分も回復し、これによってマアトと貴婦人は正式に夫婦になることができたのです。さらに無実の罪で時間を奪われていたマアトへの謝罪として、彼とその妻となった貴婦人を若返らせてくれたのです。そして二人の息子である少年には「正直者」という名前を与えました。
 少年はやがて立派な大人に成長し、両親の財産を受け継いでエジプト一の大金持ちになりました。
 さて、ウソつきで意地の悪いゲレグはどうなったのかと言いますと…神々をだまして間違った判決をさせた罪として、両目の視力を奪われ、残りの一生を門番としてみじめに過ごしたということです。