宿直草「天狗つぶて」

 寛永元年(一九二六年)、私が幼い子供だった頃、大阪石町辺りへ度々泊まりに行っていた時に、その町のある家の屋根に夜ごと礫(つぶて)が落ちてくるという怪異がございました。
 落ちてくる礫の数は、七つ八つ、或いは十、或いは十四、十五とあり、また音の無い時もあり、枯野の草の上に霰(あられ)の降りしきる如く、騒々しく音の響き渡る時もございました。
 しかし軒先まで転がり落ちてくる気配はなく、それは、夏の最中より秋の末にかけて止むことはありませんでした。
 隣の家はこの様子を大層恐れ、忌々しく思っておりました。

「大変な事でございます。天狗つぶてが打つ家は、火事が出ると申します。どうぞ加持祈祷など行ってお祓いをして下さいませよ」

などと進言いたしますので、身近な者達も

「どうぞ然るべきお祓いなどを受けて下さい」

と申します。
 しかしこの家の主人は一向宗(浄土真宗)を信仰しており、お祓いなどというものを嫌っておりましたので

「私は万行円備(まんぎょうえんび)、仏の全てが備わっている念仏より外に祈りなど必要ないのです」

と言って、周りの言葉に耳を貸しませんでしたので、他の者達はどうすることもできませんでした。
 人々の心配をよそに、その家にはなんの災禍もなく、家人たちは恙なく住み続けております。四十年の春と秋を過ごし、去年、その家の門前を通りかかりました時に、以前にこんなことがあったなぁと思い出され、そっと家の内を伺ってみますと、昔と変わったところもなく、ただ主だけが子供に代替わりしておりました。

 怪異を気にせぬ者には災いが振りかかることもない、という事でございましょうか。目の前を覆う膜を取り払ってしまえば、空に花は咲かないとお分かりになりましょう。ただ風に鳴子が揺れただけで、群れ騒ぐ雀のようなものなのでございます。


「忌」という文字は「己の心」と書くものです。梅を思い描けば口の中が酸っぱくなり、虱(しらみ)と耳にすれば肌が痒くなるように、心に思えば様々な物事が生じるもの。要らぬ心配をすることで、要らぬ災いを招き入れるのかも知れません。
 塵芥(ちりあくた)を掘り返し、その中からミミズを掘り出してしまうのに似ておりましょう。むやみに物事を気にかけないことでございます。些細な事は普段の心がけ次第によって如何様にもなるのでございましょう。身が滅び、家が絶えるなどは因果でございます。あえて言葉にするまでもないでしょう。

 孔子の弟子・子路(しろ)は大夫(たいふ)の病快癒を祈ろうと言い、孔子の言うには、「丘(きゅう・子路の事か?)は祈る事が長い」と。目連は「釈尊を救おう」と言い、仏はこれに、「やめなさい。助ける必要はない。これ因果である」と。
 孔子の徳に及ばず、仏の慈悲に及ばず、人の持つ業(ごう)のなせるところであり、手をつける事はできません。天から与えられた高い徳、森羅万象の本体が真実であり不変であることを尊ぶ人こそ、本当に尊い祈りであるのでございます。

 罪を犯しても祈りに頼るような人に、どうして仏の真理を悟る事ができるでしょうか。この辛く苦しい世の中には神もお出ましにならないのに、神をお慰めするべき人が去ってしまった後、おいでになるはずもございません。
 身の程を知り、身分をわきまえ、働くことを忘れず、道理に添って日々を過ごせば、決して災いなどあるはずもないのでしょう。祈らないからといって神が守ってくれないなどという事はないのです。
 また占いを聞きかじった者が、白川橋に筵(むしろ)を広げて腰を掛け、大仰に仮名(かな)交じりの八卦の書を読み、梅花心易(ばいかしんえき)などを所狭しと並べたて、粗末な着物や薄汚れた単(ひとえ)をまとい、季節外れの編笠の下で筮竹(ぜいちく)などをかき回しながら「吉凶を直してしんぜよう」などと口にする人に対して騒ぎ立てるなど、大変に愚かしいことと言えましょう。

 そうは言いましても、加持祈祷など何の役にも立たないと申し上げている訳ではないのです。およそ現世の利益と申しますのは、仏の道に至るための有り難い方便でございます。