【庚申の怪】 歩道橋の記憶
結婚前に住んでいた家のすぐ側には、国道が交わる十字路があった。
自転車は専用のゼブラを利用し、歩行者は歩道橋を利用するようになっていた。
その日はたまたま自転車の調子が悪くて、珍しく歩道橋を利用した。
二股に分かれている箇所に差し掛かった時、眼下の国道を巨大なトレーラーが曲がってくるのが見えた。
しかし信号機は赤。
明らかに信号無視だ。
その凶悪な疾走する鋼鉄の箱の前には、小さな女の子の乗った自転車。
腹の底に響くようなクラクション、妙にチャチに聴こえた破壊音、周囲から湧き上がる悲鳴、大気にたちこめるゴムの焼ける音。
事故だ!
あろうことか、歩道橋の上から事故を目撃してしまったのだ!
震える足を必死に動かし、私は歩道橋を渡り切り、階段を駆け下りた。
服のポケットから携帯を掴みだし、事故の現場へ視線を向ける。
「……え?」
携帯の画面に指を当てたまま、私は唖然としてしまった。
――何もない。
信号無視の大型トレーラーも。
圧倒的な力で押しつぶされてしまった小さな自転車も。
道路を赤く染める少女の鮮血も。
意図せず事故の目撃者になってしまった人々の阿鼻叫喚も。
何もないのだ。
ポカンと口を開けたまま間抜けな格好で固まってしまった私の前を、不思議そうな、そして迷惑そうな表情で通行人が通り過ぎる。
釈然としない気持ちのまま、ありもしない事故を通報する訳にもいかず歩き出した私は、目的地に到着する寸前に思い出した。
数年前の4月。
小学校に入学したばかりの少女が、あの道で大型トレーラーに巻き込まれて亡くなる事故があった事を。
入学のお祝いに買ってもらった自転車に乗って、母親と一緒に買物に行こうとして。
母親の自転車と距離が離れた、その一瞬の出来事だったらしい。
通り過ぎる人々が事故の記憶を忘れつつあっても、あの場所に在り続ける歩道橋は覚えているのだろう。
私はそっと胸の中で手を合わせた。
了