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名大で初めて〇〇した日 vol.3

 今月も名古屋大学OB・OGの皆様、名古屋大学メールマガジンNEXTをお読みいただき、ありがとうございます。
 第3回となりました、「名大で初めて〇〇した日」。「大学の変遷が偲ばれる」「当時のことを思い出した」…と好評なお声をいただき、大変ありがたく思っております。
 今月は、名古屋大学副総長(広報・医療系産学連携・ベンチャー・創薬系部局間連携協働担当)、医学系研究科教授の大野欽司先生に在学時代の思い出を絡めた大学のお話を寄稿いただきました。
 大野先生は名古屋大学医学部を1983年にご卒業、博士も名古屋大学で修了されています。

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「名大に初めてクルマで来た日」

                            大野 欽司

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 名古屋はクルマの街である。日本では誰でも百メートル道路の名前を知っている。しかし、多くの人は百メートル道路を見ても気付かない。中央の公園が百メートルの一部であることを知って驚かれる。決して不便な一対の一方通行道路ではないのである。名古屋市内の道は幅広い。桜通も幅員50メートルあるらしい。今では信じられないのだが私が学生時代は多くの名大生が自家用車を持っていた。当時は都市部にある国立大学では自家用車も持つ学生がほとんどいなかったことをつい最近知った。名大生は特別な街の学生であった。
 私が学生時代は東山キャンパスにも鶴舞キャンパスにも学生がクルマで来ることができた。私は電車通学であったが時々クルマで大学に来た。本山にしか地下鉄駅がなかった。クルマで来ると四谷通りの坂道を登らなくて済む。若い頃から酸素が嫌いだったようだ。その後、大学院で酸化ストレスの研究を行った。酸素を使って高いエネルギー産生をできるミトコンドリアを手に入れる代わりに寿命を悪魔に差し出す取引を生物はしたと信じていた。悪魔との取引によって可能になった運動は体に悪いと思っていた。しかし、酸化ストレスや植物毒(ファイトケミカル)が少量であれば体によいことが最近わかってきた。ホルミシス効果と呼ばれる。四谷通りの坂道は当時の電車通学生に適度なホルミシス効果をもたらしたようである。
 話がクルマから逸れた。東山キャンパスは駐車料金を取られなかった。どの道からでもクルマで出入りができた。しかし、四谷通りにゲートが設置された。暴走族対策である。学内の道は公道ではない。学内には信号もない。暴走族にはもってこいだった。名大は四谷通りを挟んでオープンすぎるキャンパスと批判されていたのに、ゲートが設置をされるとキャンパスが外部から遮断をされたようで寂しかった。この原稿ドラフトを書いてからDO室に驚くべきことを教えていただいた。私が学部生であった1977年から1983年の間に暴走族対策ゲートが設置をされたことを同級生にも確認をした。しかし、その後暴走族対策ゲートが撤去をされ、現在の入構ゲートは2000年代に入ってから設置をされたそうである。
 当時は典型的なクルマの街の学生であった私も2004年に名大に戻ってきてからはすっかりと運転嫌いになった。米国ミネソタ州で11年間を過ごして渋滞が耐えられなくなった。この原稿を書いている東山キャンパスには一度もクルマで来たことがない。学生時代の自分には想像ができない姿である。

1987年影響卒業アルバムよりゲートがない時代のキャンパス(1987年)

1989年生協入学アルバムよりゲートがない時代の豊田講堂前の様子(1989年生協入学アルバムより)

画像1たくさんの車が並ぶキャンパスの様子(2021年4月撮影)