【 合わないものは、合わないって 】

#脳血管 #脳オペ#コイル#脳幹#IgA腎症

わたしが考えている内容の範囲と言うのは、
今まで生きて来た間に、知らぬ間に、刷り込まれた価値観や風習に慣習などの中に、どうしても収まってしまう。

そこから抜け出しましょうとも、あらゆる人が言う。

抜け出すのも有り。

ただ、スッキリ、抜け出せるかどうかも、また、抜け出せた状態になったよと判断する指針すら無いから、自己満足で、抜け出せたと、そう思うしかない。

そこから抜け出した方が良いですよ。と言う言葉から行動したってことは、誰かの価値観の中のものになるだろうし。

自分の内側から、自然と湧いて来たことならば、本来の自分の価値観かもしれないけど…。

果てして、それも本来の自分の価値観が、生み出したものなのか?

こんなに情報が溢れた世界にいて、耳が聞こえ、目が見えて、このnoteの存在を知っている時点で、何かが知らぬ間に入っているのではないか…。

自分が生み出したと思ったもので、
似たようなことはないかと調べると、色々な先人たちが、既に、発信している。

意識して、取り入れたものじゃなく、何気なく、耳に入っていたものが、知らぬ間に、脳に定着していて、タイミングよく想起されただけかもしれない。

そんな風に考えると、キリがない。

だから、抜け出した方が良いかどうかなんてことさえも、もう、どうでも良い。

ただ、誰かからの思想の圧力で、自分がしんどくなっているんだなって思うものが有れば、そこから、離れることは、大切だと思う。

わたしもそうだったけど、今よりも、もっと良くなりたい。去年よりも今年。今年よりも来年こそ。
と思って来た。

わたしの場合は、漠然と良くなりたい。楽になりたい。だけでしたが、長い年月をかけて、振り返れば、そう言えば、少しずつは、楽になっています。

けど、昨今の流行りというか、なんと言うか…。

変容しましょう。
変化しましょう。
より具体的に、イメージしましょう。
イメージを明確にしましょう。

だけでも、疲れる圧があるのに、

劇的な変化。
まさかの変容。
急激な変化にあなたは、驚き、それに耐えることができる人こそ、成功がある。

って。
激しい目なキャッチが、多くなっているように思う。

人生において、わたしは、竜巻のように、急激に、ひっくり返るような衝撃での変化や変容は、求めていない。

時代の変化の流れに乗れなくて、良いんですか?
埋もれていくことになります。
このままで良いんですか?

不安商法ですかねー。

わたしの求める変化や変容は、緩やかが良い。

知らぬ間のクレッシェンドで良い。

それは、すなわち、成長。

他所様ん家のお子様を久しぶりに見ると、急に成長したかのように思うけれど、いつも近くにいたら、その成長度合いが、わかりにくいようなもので。

わたしは、身長が、伸びるときも、成長痛など無く、膝が軋む音を聞くタイプでも無い成長の仕方をして来たので、

世間の自己啓発パターンに、合わないタイプであっても良いんで無いかな。

最近は、そんな風に思う。

たいがい、誰でも、みんな、変容するんです。これをやれば。

変容しない人がいるとは言わないよね、さすがに、商売としては。

その隙間の無さの価値観のアピールに、ついていけない、疲れてしまう人間もいて、良いじゃない。

ここを否定されることも無いでしょ。

合わないもんは、合わないよ。

それで良いやん。

そう思えたら、とても軽くなった。

なんとなく合わないような気がしているのに、あのすごい先生が言うていることを実践しているから、わたしも、あの先生のように…。先生の近いレベルまでにはなるはずだ…。まだ成っていないのは、わたしが、まだまだだから。もっと頑張らないと。

高額払う。

支払い大変。

学びの仕事以外にも、結局、手を出すか、今までの仕事が辞められなくなり、学びに手を出す以前より、現状が、ハードになっている人らも、かなりの数を見て来た。

シンプルに、合わないこともあるって、発信者も伝えないと。

絶対的な発言で、集客してゆくのは、もうなんだかなって思う。

病気発動のおかげで、メンタル揺らいだおかげで、さまざまな人間と出会うことが出来た。

結局は、自分で自分のことを、いかに、信頼できるか?ってところに行き着いた。

わたしは、以前、職場で、

「わたしはわたしのことを、自分で信じられない。だから、仕事のことを聞かれて、わたしが、何かを答えたかとしても、それを信じず、自分で考えるか、他の人に、確認してください。わたしは、1番、わたしを信じていないし、わたしはわたしを、わかっていないから。」

と、しょっちゅう言うてました。
本気でそう思っていましたし。

そんなわたしは、わたしを信じることができるのか?

信じきるしかない、手術台に乗るわたしは、まな板の上の鯉。

自分を信じていない人間が、ドクターと言う他人を信じるしかない。

ドクターを信じても、わたしが、わたしが生きることを信じていなくては、意味もない。

ドクターに任せると言う、わたしの気持ちを、わたし自身が、いかに信じきり、そのようなわたしの心を、わたしが信頼することができるのか?

ここの度合いで、オペ当日の気持ちが、できあがるんだろうな。

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