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支配されているかどうか

数年前、ドイツ人哲学者のマルクス・ガブリエルが東京の電車に乗り、ほぼ全ての乗客ががスマートフォンに見入っている光景を目にして、「中国はデジタル技術で国民が監視される国家だが日本はもっと凄い。日本人は自ら進んでスマートフォンの支配を受けに行く」と指摘した。

指摘はもっともで、第三者が日本の電車内を眺めれば、様々に奇異な光景が見えたことだろう。昔は“サラリーマン”が折りたたんだ新聞をじっと眺めて電車に揺られるのが朝の定番光景だったが、今はスマホに代替された。手持ち無沙汰にいじる人が大半だろうが、歩きながら一心不乱にスマホをする者に至っては、立ち止まる時間すら与えられずに何かにコントロールされているかのようだ。

とはいえ、「日本人は孤立的で、他者への関心が薄い国民」かというと、そうとも言い難い。むしろ、他人の目をいつも意識し、他人のことが気になってしかたがない風土がある。都市の公の場では、他者をジロジロ見るのも角が立つので、市民の多くは「儀礼的無関心」(ゴフマン)を装う。本や新聞を読んでもいいのだが、スマートフォンのほうが手っ取り早い。大抵の場合、いじりつつも周囲の動きは敏感に察知している。

同様に、「日本人は”見えざる力”にコントロールされやすい」という指摘について。その傾向はあるが、見えざる力は政治的・宗教的な権力・権威ではなく、「周りの空気」である。コロナ期で政治家や行政が採った施策の多くは、「周りの人たちもそうやっていますから、あなたも従ってください」という昔ながらのロジックであった。

コロナ禍の緊急事態に際しては、わたしたちは「安全の確保」と「行動の自由」の二律背反に直面した。各国において、リーダーの意思決定能力や国民の自律性/受容性、人と人とのコミュニケーションのあり方など、国をかたちづくる要素のレベル差が明らかになった。コロナが沈静化した今、”喉元過ぎれば熱さを忘れる”のではなく、この時代に浮き彫りになった問題や課題を忘れてはならない。

日本に限らずどこの国の人であれ、真に問われるのは、平和時の相互の振る舞いではなく、緊急時・災害時に皆が「意識的関心」を発揮し、互いに助け合うことができるかどうかであろう。ドイツはどうだったのだろうか?


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