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情報過多の時代で

物心ついたときから、身の周りは情報に溢れていた。インターネットがない頃でも、ある程度の手間をかければ必要な情報を入手できた。便利な時代になったもんだ、と子供の頃から感じていた。

現在は、その手間が極小化されている。世界各地の森羅万象に関わる事象や解釈について、簡単に「知る」だけでなく、「分かった」つもりになれる。ChatGPTに代表されるような機械学習の技術が進化するにつれ、誰でも「適切に考えた」つもりになれるだろう。考えることは面倒だ、誰かが代わりに考えてくれれば助かる。人は余った時間を有効に使える。ますます良い時代になるはず。

だが、人々の顔色を覗くと、あまり幸せそうには見えない。自分の仕事はどうなるのか、生活はどう変わるのかと、不安が増しているようだ。答えを探ろうと街に出るが、結局は心地よいインターネットの世界に戻る。グダグダともがく中で日々を過ごし、一生を終える。

こうした傾向は、なにも最近始まったことではない。古くから、社会や組織の基本欲求は、人々の思考と行動のコントロールにある。対話やモチベーション、ティール組織、多様性など、表層的な概念は舞っているが、社会にとって大衆は「思考停止した良き労働者、良き消費者」であることが望ましい。創造は一握りの人が行えばよい。AI技術の進化によって、社会の意図は着実に完成形に近づいている。  

そこで、個人はどう生きていくべきか。

疑問を抱かず、逆らわずに、時代の流れに乗って日々を過ごすのが最善だろう。昔から、多くの人はそうやって一生を終えてきた。小難しく考えれば辛いだけだ。
 
いや納得出来ない、というのであれば、
1.自分の煩悩を棚卸しする
2.自分の情報源を見直す
3.歩く、移動する
そして、たまに書く。
目的など、見つからなくてもいい
意志ある個人として行動する、それだけ。




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