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太田靖久「ししし」(『しししし4』双子のライオン堂2021年12月)を読んで。

小説の冒頭になぞらえて、幼少期のことを思い出した。小説を読んでいると、ときに、そういう忘れていたことを思い出したりする。

小学校一年生が幼少期にあたるのかわからないが、私はぼーっとして生きてきた子だったのか、人より成長が遅かったのか、写真に依拠しない幼いころの記憶の始まりが幼稚園の年長あたりからになる。

小学1年生の時、今から40年ほど前、左利きの私はひらがなの書き写しで、担任の指導ですべて右手で書くように言われていた。利き手でないため震えないように鉛筆をしっかりと握って、ゆっくりゆっくりと書くのでひどく時間がかかった。

皮肉なことに、ゆっくり書くため、字が左手で書くより一見綺麗に力強く書けていたので、翌年担任が変わるまで、私は右利きを強いられていた。放課後に居残りまでさせられて書き写しをしていた。書き写しといえば、同じひらがなや漢字を繰り返し書かされるので、書いているうちにその字がその字で無いように見えてくることは、誰しもが経験していると思うが、どうだろうか。

著者のデビュー作「ののの」がデビューから約十年の月日を経て我々の前に単行本として刊行された。

「ししし」は「ひひひ」に続くスピンオフ的位置づけの作品のように見えるし、そういう側面があるだろうが、「ししし」は「ひひひ」に比べると、「ののの」の世界とはまた少し違う、新しい感触がある。

一方で男女が交わす言葉の応酬には「ののの」を読んだときに出会った印象を彷彿とさせ、会話の微妙なズレを通してつながっていくさまが心地よい。

主人公の名前(名字)が、矢島さんから呼びかけられて判明する様子や、矢島さんの脈略のない話題のふりかたの感じなどが、出会いの描かれ方としていいなと感じた。

あることで「し」をきっかけに、と書きかけて気づいたが、ひらがなで見るとそうでもないが、「死」と書くとそれはそれはまさに「憑りつかれる」のもわかる気がする。

しかし「死」ではない。あくまでも「し」だ。

「し」にはあるもののイメージが与えられており、その「し」が起こす出来事は象徴的でもあり、私の眼にはぺろりと剥がれていく様子が目に受かんだ。なにが起こっているかはぜひ読んでもらいたいと思う。

もちろん「ししし」は掲載誌「しししし」であることと無関係ではないだろう。掲載誌の名前の由来を私は知らないともいえるし、発行元の書店さんの名前にライオンという文字が入るからともいえる。確かめたわけではない。

ひらがなの持つのびやかでありながらも重ねることで不気味でまがまがしいイメージも生み出されていると私は思う。

そういえば「しし」も「ひひ」も実在の動物にいるなあと思いながら、もう一度私はこの小説を読み返してみたいと強く思った。

ある遊園地の乗り物が世間のイメージとは真逆に塗り替えられていくさまも興味深かった。

本屋発の文芸誌『しししし』/公式サイト – shishishishishishis…….. (liondo.jp)


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