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寿司好きナードラッパーを愛してしまう運命 〜サブリミナル効果で木全翔也の沼へ

何かを好きになってしまって日が経つと、好きになったきっかけというのはどうでもよくなって、好きという気持ちを持ち続けるためになぜ好きかを言語化することにはあまり意味はない。理由が分かったところでたぶん自分の気持ちが変わるわけでもないし、同じ条件が揃った別のものを必ず好きになるわけでもないから。

ただ、わたしは言語化には統計の機能があると思っていて、自分がどういう瞬間に何かを好きだと思うことが多いのか、物事のどんな成り行きに満足する傾向があるのかを知ることで、「好き」の渦中にいる自分を見つめ直すことができる気がしている。そして自分と対象とのちょうど良い距離感(自分の側の心理的な距離感のことデス)や、自分の行動の指針を見いだせると信じている。

つまり「好きだ」と思うことは衝動だけれど、その衝動をひもといた結果、自分がどういう行動を取るのか、発言をするのか、しないのか、決めるための縁として言語化はわたしの味方である。なんとか味方してほしい。そうでないとこのまま暴走してしまう。

大げさな導入だけれど、「Go To The TOP!」JO1の木全翔也さんの話です。アイドルを推すつもりじゃなかった 〜サブカルこじらせのわたしがJO1を好きになった101の理由という記事で触れたように、わたしがJO1を好きになったきっかけの人物は川尻蓮さんだった。PRODUCE 101 JAPANのテーマソングでセンターを務め番組中もずっと上位にいつづけた華やかな存在、そしてJO1になってからはパフォーマンスリーダーとして、グループ随一のゲラとして魅力的な姿を見せ続けてくれている川尻さんは、その才能ととらえどころのない魅力で今でもわたしの心を揺さぶり続けている。

同時に、JO1は見れば見るほどメンバー全員を好きになってしまうグループだ。わたしがJO1を見始めた時期は、かろうじてS1が再配信されていた時期だったので、メンバーのアウトラインやメンバーがデビューに至った過程は知ることができたけれど、いわゆる分量や切り取り方の違いもあって、それぞれの才能や人となりを十分に知れたわけではなかった。2021年夏頃からリアルタイムで供給に触れるようになって、自分の日常にJO1がいる状態になると、「誰が」好きというよりも「JO1が」好きという感情が頭の大半を占めるようになった。

そんな中でも「あれ…?この人…?」と目に行く回数が明らかに多くなったのが木全翔也さん。ちょうどその時期のラジオか何かで川尻さんが「さいきん翔也とよくいる」と言っていた気がするので、川尻さんを追う先に木全さんがいた結果、サブリミナル的に木全さんがわたしの中に入ってきたのではないかと推測している。推測しているだけで明らかなきっかけはないので、本当にシームレスに「木全推し」状態になったというのが正しそうだ。

前回JO1を好きになった理由をいくつか挙げたように、木全さんを好きになった理由をウンウンうなりながら考えてみた。冒頭にも書いたように、理由を探すことにはほとんど意味はないのだけれど、「よく考えても好きな理由があるし(推すしかない)」というエクスキューズを自分に与えるいわば言い訳を見つけるためだけに。

「言葉を丁寧に扱う」
木全さんがメンバーのことを褒めるのを聞くのが好きだ。メンバーと1対1でトークをするコンテンツがFCにあるけれど、質問カードにある「相手の好きなところ」「相手のかっこいいと思うところ」的な問いに対する木全さんの回答は、何らかの新しい視点を持っていたり、既に言われている視点だけれど異なる表現だったり、さらに具体化したものであることが多い。それが、自分の思考を言葉にすること、それを表現することにこだわりを持っているように感じて、自分も言葉を扱う仕事をしている身として感銘を受けてしまう瞬間がたくさんある。そして、その言葉選びに常に相手を思いやる優しさを勝手に感じ取ってしまい、リスペクトすらしてしまう。言語能力を養うのは聴覚だと聞いたことがあるので、耳がいいんだな、だから模倣やラップが上手なんだな、などと。

「引用が多い」
わたしがずっと好きでいる渋谷系の文化として、「サンプリング」というものがある。主には曲をつくるときに既存の曲のフレーズやメロディーを引用して構成するという、日本古来でいうと「本歌取り」、現代的にはHIPHOP的手法のことなのだけれど、完成した作品の良さと同時に、元ネタがわかったときの「!」の感覚がとても心地良い。歌詞の中にそのとき自分たちの中で流行っているドラマのセリフをサンプリングしたり、仲間内のノリが生んだパンチラインを使いまわしたり、さながらゲームのように引き出しにしまっておいた言葉や音をパッと取り出して見せる様子に魅せられてしまうことが多い。最近、川尻さんが好きな言葉として「創造とは思慮深い模倣にすぎない」を挙げていたけれど、自分の話す言葉や書く文章はもともとは誰かが使っていたもののサンプリングにすぎない。どの言葉を選んで、どのように組み合わせて、どんな文脈で使っていくか。そのアイデアや時代との一致が創造性とかオリジナリティとか呼ばれるのだけれど、木全さんはそのアイデアと引き出しが常に一杯の状態で、会話の中で引用するスピードが早く、バリエーションも豊富なように思う。そんな様子にわたしは、自分の好きなサブカルナードの素養を見出してしまうのだ。

「嘘がない」
アイドルとファンの間には必ず嘘がある。それは「作品」という形のフィクションだったり、アイドルという存在の一部としての虚像もしくは誇張だったりするのだけれど、そのおとぎ話を一緒に転がして楽しむのがアイドルとの付き合い方だと思ってきたし、今でもそれは変わっていない。わたしが見ている「木全翔也」という人も、プロとして世に出るためのフィクションをまとっていることには変わりはないだろう。ただ、木全さんからは「明らかな嘘だけど許容して楽しもうね」という気配がまったく感じられない。受け取り側が「嘘って分かってる」と自分に言い聞かせる時の一抹の寂しさ、自分が喜びそうな言葉や態度を扱わせることによる「ヒトの消費」への罪悪感、そういったものを抱く隙がないくらい本当に思ったことや感じたことを表現しているように思うし、「愛嬌」のレベルの嘘ですら自分に許していないように見える時もある。唯一、感じる嘘があるとすると「照れ隠し」のためのフィクションだけれど、それはサービスとしての嘘ではないし。とにかくわたしにとって大切なのは、それが素かどうか本心かどうかではなく「本心のように感じるかどうか」なので、そう思わせ続けてくれる木全さんを安心して見ることができる。

「ハマチに血合いをつける」
決定的なきっかけはないと書いたけれど、もしかするとわたしが木全さんから完全に目が離せなくなった理由はこれかもしれない。自分自身が食へのこだわりというか執着が強い人間なので、食べ物に対する関心や観察力、有り無しのラインが近い人に好感を持ちがちということもあり、とにかくお寿司が好きでその中でも海老が好きという単純な共通点があるということも相まって、「食べることが大好きな木全さん」を形作っているこれまでの人生や日々の暮らしへの姿勢を好きになってしまっている。

ここまで事細かに書いておいて今更だけれど、ここでふと自分に「お寿司が好きなナードラッパーを好きだった過去(というか今も)」があったことに気がついて愕然としてしまう。渋谷系全盛期からずっとかせきさいだぁさんという人を推し続けていて、その人を好きな理由と木全さんを好きな理由は多くの部分で重なっている。つまり「ただただタイプ」ということなのだ。理由を分解して初めてわかるなんて恐ろしいけれど。

ムッシュかまやつが「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」という曲の中でこう言っている。

そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあせな道を歩んでいるだろう

対象が同じだったとしても、何かを好きな理由は人によって違う。人の好きになり方を倣う必要はないし、同じ部分を見る必要はないし、好きでいつづける義務もない。応援してもいいし見守ってもいいし、お金をたくさん使ってもいい。わたしはこれからも何かに凝る木全翔也さんをしあわせの象徴として見守るだろうし、わたし自身も沼と向き合いながらしあわせな道を歩んでいくことでしょう。

そして、言語化はわたしのブレーキにはなってくれなかったね。

【2022.06.29 NR】


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