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1989年の巨人軍捕手三人制|酔いどれのプロ野球昔ばなし #1

捕手三人制の”原型”

2019年、巨人軍に復帰した原辰徳監督は、この監督らしい思い切った策を次々と打ち出した。その中の一つが「捕手三人制」である。「強いチームに名捕手あり」と言われることが当たり前になった現代野球で、それを覆すような奇策と言っても良いだろう。

これは小林誠司も大城卓三も戦力としては不足していることから、炭谷銀仁朗を獲得して始まったが、実はこの一風変わった戦術、プロトタイプがあったのだ。それが、これから話す「1989年巨人軍捕手三人制」である。

中尾・山倉・有田

1988年王監督の退任とともに、再び火中の栗を拾う羽目になった藤田元司監督は「世紀のトレード」を仕掛ける。ライバル江川卓を失い、投手コーチとの確執もあって居場所をなくしていた西本聖と、1987年ファーム日本選手権で好投もその後伸び悩んでいた加茂川重治。この二人と度重なる故障で外野手にコンバートされるも、捕手にこだわりのあった中日の中尾孝義との二対一のトレードが成立した。巨人と中日は戦前から、親会社同志は犬猿の仲。おりしも名古屋では中日対読売の新聞戦争が勃発していた。どちらかが失敗すれば親会社に申し訳が立たない、リスクを孕んだトレードであった。

当時の巨人の捕手事情も見ておこう。まず山倉和博がいた。「意外性の男」と呼ばれ、若い頃には第一次政権の長嶋茂雄監督から「将来の5番」という期待も持たれていた。安全圏ではあるが気配りのリードで定評があり、1987年には打率.273、本塁打22本で「史上最強の8番打者」と言われ、MVPも獲得した。

もう一人は有田修三だ。近鉄では梨田昌孝と熾烈なレギュラー争いを繰り広げ、併用となると「アリナシ・コンビ」として、西本幸雄監督のもと強豪に生まれ変わったチームを支えた捕手。勝ち気なリードで、大投手・鈴木啓示の恋女房を勤め上げた。巨人は80年代前半から獲得を狙っていたが、1985年オフにようやく獲得となった「巨人の恋人」である。

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