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【歌い手史2014〜17】キャラクター化する歌い手たち 第3の意味の成立 ”中の人”がいるVTuber【歌い手史を作るプロジェクト】
まふまふたちによって「歌い手≒ボカロ曲を歌うユーザー」という認識が解体された2015、6年ごろ、これまでと同じように歌い手たちは人気を伸ばし続けていた。
当時はボカロだけでなく、ニコニコ動画全体の凋落もささやかれていたが、歌ってみたの再生回数はおおむね堅調だった。
2014年前後に活発化したYouTubeへの移民も、少しずつ進んでいた。
当初はチャンネルを作ったまま放置していた歌い手も多かったが、徐々にニコニコ動画と同時、または1日遅れなどで同じ動画を投稿するユーザーが増えていった。
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まだYouTubeでは歌ってみたを聴く文化は浸透していなかったために、再生回数は芳しくなかった。YouTubeの方が視聴者自体の母数は多かったものの、彼らの存在感はニコニコ動画と比べると著しく小さかった。
だがそれでも、彼らは新たなフィールドを切り拓こうとしていた。
これまでのように歌い手として新たな世界を開拓していこう、という気概があった。
◆歌い手の意味が不明
けれどもその一方で、とある新たな問いが、彼らに突きつけられていた。
「歌い手という肩書の意味とは?」という根本的な問いである。
歌い手という肩書の、これまでの意味を振り返ってみよう。
ニコニコ動画がサービスを開始した際に広く使われ始め、はじめは、「2ちゃんねる的価値観に沿った歌ってみたを、ニコニコ動画に投稿するユーザー」として成立した。
次いで2013、4年ごろ、ボカロ文化の統合とともに当初の意味が忘れ去られ、「ボカロ曲をいわゆるJ-POPのように歌うユーザー」といった意味に変化を果たした。
そして2015、6年ごろ、まふまふをはじめとしたオリジナル曲を作る歌い手の台頭によって、「ボカロ曲をいわゆるJ-POPのように歌うユーザー」という意味が否定された。
その意味の否定によって、ボカロ人気の衰退という危機を逃れた。
しかし、それは同時に、歌い手という肩書の意味を宙吊りのものとする“副作用”を持っていた。
なるほど歌い手とはボカロ曲を歌うユーザーのことではないらしい。
じゃあ、歌い手って何者なのだろう——。
ボカロ曲を歌うという意味の否定は、歌い手という存在の人気を保った。だがその一方で、歌い手という存在の定義、いわばアイデンティティを失わせてしまっていた。
◆歌い手に対する愛着
意味不明な肩書なら、そんなもの名乗らなければいいのでは? 多分、そう思った人もいるだろう。
けれども、当時の歌い手の大多数には、その選択は出来なかった。
それは何より、自らは歌い手という特異な存在であるという自負——愛着を、彼らの多くが持っていたからだった。
2015、6年頃に人気の歌い手として活躍していたユーザーのほとんどは、2008から12年——つまり、第1の意味であるか第2の意味であるかを問わず、明確な意味を持った“歌い手”という肩書が強く存在し、なおかつ歌い手からのメジャーデビューというルートがまだ定式化しきっていない時期に活動を始めていた。
そのため彼らのなかには、「ネットに自分の歌唱を投稿するんだ」という感覚ではなく、「歌い手として活動を始めるんだ」という認識がまず始めにあった。
「メジャーデビューを目指して投稿するんだ」という先を見つめた野望ではなく、“歌い手”として活動をしたい、という好奇心があった。
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「『楽しくて楽しくて仕方ない!』そんな存在です。“歌ってみた”を通じてたくさんの人に興味を持ち、たくさんの人に興味を持っていただけました。自分にとってはすでに人生の中で大きいものになっていると思います」(歌ってみたについて——歌い手・天月)
メジャーデビューを果たしてもなお、その認識はなかなか揺らがなかった。
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「あくまで趣味、遊びなんです。その感覚は変わらないかなと。好きな曲を好きなように歌って、それをたくさんの人に聴いてもらえる、(引きこもりがちな自分にとって)すごくコスパのいい遊びなんですよ。音源をつくるのも好きですし、ミックスやマスタリングといった技術も勉強して、少しでもクオリティの高いものをつくりたい。それは直接仕事にもつながったりもしますが、あくまでこれからも遊びとして続けていきたいなと思います」(メジャーデビュー後の歌い手活動について——歌い手・そらる)
彼らの中には、自らが“歌い手”という特異な存在であるという事実は、絶対の揺るぎのない大前提として存在していた。
彼らにとっては、どんなに意味が不明であっても、「ぼくたちは歌い手だ」という事実は必ず真だった。
だからこそ彼らは、歌い手という肩書を、簡単に捨て去ることはできなかった。
歌い手という肩書の意味はわからないけれども、自分たちは歌い手だ——という歪な認識を起点として思考を進めることしかできなかった。
◆彼らは歌い手ではない
またその不器用な愛着ゆえに、一番わかりやすい共通点である歌ってみたを投稿するという点を採用して、「歌ってみたを投稿する=歌い手」と意味を拡大することもできなかった。
10年代前半には、歌ってみたを投稿するユーザーがますます増加していたが、その一部は歌い手と名乗らないままに、ボカロ曲でもない歌ってみたを投稿していた。
つまり、歌ってみたを投稿しているけれども歌い手ではないとみなされるユーザーが、一定の規模を持って存在していた。
もし、「歌ってみたを投稿する=歌い手」とみなせば、彼らを新たに歌い手とみなすことになる。
だが、「ぼくたちは歌い手だ」——つまり、他とは違うという自負が大前提としてある歌い手たちにとっては、それは考えられなかった。
あの人たちはぼくたちとは違う。彼らは歌い手ではない、と。
彼らのなかには、自負を根底とした排他性のようなものがあった。歌い手というのはぼくたちのもので、それ以外の人間には渡さない——という感覚があった。
その結果として彼らは、歌い手という肩書の意味を新たに見出す必要に迫られた。歌い手とは特異なものだ。じゃあその他との差別化ポイントは——と模索するはめになった。
何か共通点はないものだろうか。定義とみなせそうなものはないだろうか、と。
やがて、彼らは答えにたどり着いた。
歌い手と呼ばれた存在の大多数が持つ、共通した要素、はたから見れば定義と言えそうなものを見つけた。
ーーそこで新たに選ばれたのが、歌い手の第3の意味「固有のキャラクター像を持つ、歌ってみたを投稿するユーザー」だった。
◆キャラクター化とは
第3の意味「固有のキャラクター像を持つ、歌ってみたを投稿するユーザー」とは何か。
その名の通り、歌ってみたの投稿者のうち固有の2次元キャラクターを持つユーザーを、歌い手と呼ぶようになったということだ。
言葉だけで説明してもなかなか理解しにくいので、まふまふを例にとってみよう。
「まふまふってどんな見た目なの?」と聞かれたとき、大多数のファンはこう答える。
白髪で、眼は透明感のある赤色で、頬にはバーコードらしきもの。中性的でちょっと不思議な雰囲気の少年。
九割九分九厘の人は、きっとこう答える。
ここでファンが想定しているのは、以下の画像のキャラクターだ。
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先ほどの答えをしたファンは、このキャラクターを想像していただろう。まふまふといえば、このイラストに描かれているような少年を思い浮かべる。
だが一方で、先ほどのように答えるファンは、この写真を見ても「まふまふだ」と答える。
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名前を聞いて思い浮かべるのは、キャラクター。
けれども、決して二次元の住人と言わけではなく、現実に存在する人間であることもまた確か。
雑に要約してしまえば、「中の人がいることを前提としたVTuber」と考えれば理解しやすい。
現実にはVTuberにはもちろん、中の人がいる。けれども、一応は「中の人がいない」タテマエがあり、中の人ではなく一人のキャラクターとして扱われる。
当時の歌い手とはその「中の人がいない」という前提を無くしたような存在で、2・5次元とも言い表されるような存在だった。
多くの歌い手たちがこのような行動をとり始めたのは、2010年代前半のことだ。
まふまふや96猫、“あほの坂田”をはじめとした一部の歌い手はこの時期に、2次元然としたオリジナルの固有のキャラクター像を持ち始めている。
(※もちろんそれ以前にも、そういった歌い手はいた。詳細は次回掲載予定の「【コラム】歌い手がキャラクター像を持ち始めたのはいつ頃か」を参照)
◆第3の意味として
時を同じくして歌い手という肩書の新たな意味を探し求めていた——共通点はないだろうかと考えていたユーザーたちは、これに眼を付けた。
これこそが歌い手らしさではないか——。
新たな意味を探し求めていたユーザーたちにとって、それは魅力的な、明確な特徴のように映った。
当時、歌い手と呼ばれた存在に、他に明確な共通点はなかった。
歌い手と名乗る人の数はますます増え、多様化しつつあった。かつてとは比べるべくもない多種多様な歌い手の在り方があり、そんな中から共通点を探すことは困難だった。
だがそんな中で唯一、固有のキャラクター像を持つことだけは彼らに共通していた。
曖昧な歌い手という肩書に、それだけが輪郭を与えてくれそうに見えた。
彼らは徐々に、それを歌い手にとってなくてはならない要素としてみなすようになっていった。
第2の意味「ボカロ曲をいわゆるJ-POPのように歌うユーザー」が否定され、歌い手という肩書の意味が曖昧になるにつれ、その代替の輪郭とするがごとく、固有のキャラクター像を持つことを歌い手の特徴とみなしていった。
結果として2016年ごろには、ボカロ曲を歌わなくとも、2ちゃんねる的価値観に沿った歌ってみたを投稿せずとも、固有のキャラクター像を持っていれば「歌い手っぽい」と呼ばれるようになっていく。
ナナヲアカリが良い例で、2016年に同名義での活動を開始した彼女は歌ってみたの投稿は多くなく、むしろ従来の括りで言えば歌い手とは認識されづらい。だが、雰囲気から「歌い手っぽい」と言われていた。
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2019年の雑誌記事では、以下のように言及がある。
「川合さん(※有識者)は『歌い手の人気は2.5次元的な側面がある』と語る。2.5次元とは、2次元(アニメやゲーム)と3次元(現実世界)の中間に位置する存在を形容したもの。例えばコスプレイヤーやアニメのキャラクターを演じる舞台俳優などがそう呼ばれる。『弊社から作品をリリースしている歌い手やボカロPも、本名や素顔を公開している人はごくわずか。代わりに自分をキャラクター化したイラストをプロフィールアイコンにして活動されている方がほとんどです』」(歌い手について。雑誌記事より)
こうしてユーザーたちの間で、固有のキャラクター像を持つことが歌い手の定義という認識が広まる——すなわち、歌い手の第3の意味「歌ってみたを投稿する、固有のキャラクター像を持つユーザー」が成立していく。
各々がまるで二次元の存在かの如く振る舞う新たな歌い手の在り方が、ここで生まれた。
次回→【歌い手史2018〜20】そして歌い手はいなくなる 天月の葛藤 第3の意味の終焉【歌い手史を作るプロジェクト】
細かい話→【コラム】歌い手がキャラクター化したのはいつ頃か【歌い手史を作るプロジェクト】