生きるつらさ、のうた

un/baredという、友人の写真家・ともまつりかと去年はじめたサイトで文章を書いている。ありのまま、そのまんまの自分や周りや世界と向き合い付き合うこと、大切にすること、受け入れること、ひいては愛することなどについて。そのVol.0 / 02という回で、生きる苦しさについて書いた。それを読んでくれたひとが「自分以外にもこんな風に思っているひとがいるんだとはじめて思った」と言ってくれた。そのときはまだ出会ったばかりで、だけどとても大きな存在になったひと、たぶんわたしたちは少し似ていた。たぶん、孤独の持ち方が。

わたしは生きているのが苦しい人間だ。きのうも苦しかったし、今日も苦しかった。そしてたぶん明日も同じように苦しいのだろうと思う。なんでこんなに苦しいのに生きなくちゃいけないのかなーと、普通に、よく思う。

わたしはおそらく側から見たらあまり過不足のない人間で、五体満足だし健康すぎるくらいに健康だし、そこそこに頭も見た目も運動神経も悪くなく、勉強も仕事もまあまあよく出来、きれい好きだし料理も好きだし、ひとに会えばそれなりの社交性を発揮しコミュニケーションをとることが出来る。それは単純に生まれ持った特性として、そういうふうに出来ている、あるいはなっている、ということだろうと思う。

だけどだからそういう人間が「生きていることが苦しいです、しんどいです、ツライです」というのは周りからすると意外に映るのらしい。

余談だけどわたしは「意外」という言葉が嫌いだ。アレルギーがある。人生で一番多く言われて来た言葉は間違いなく「意外だね」だからだ。
これは未だに掴みきれていないのだけど、わたしはどうやら見た目と中身のギャップが大きい類の人間らしく、「もっと怖いひとだと思っていた」「近寄りがたかった」「意外と話しやすいね」「意外と普通だね」というようなことを十代のころから散々言われて来た。漫画を読めば「意外」だと言われ、赤提灯の居酒屋に行けば「意外」だと言われた。音楽をはじめたころ、意外と暗い地味なのやってるんだね、みたいなこともよく言われた。
そういう反応のすべてが億劫だった。イメージや期待を裏切ったことを責められているような気がして心がシクシクしたし、自分の本来の姿をどうやらうまく表現出来ていないらしいことへのもどかしさもあった(自分の本来の姿なんてつまるところ自分でもよくわかっていないのだけど)。どうしてなんだろう、と思った。
わかってもらえないさみしさ、かなしさ。
“わかり合えない”さみしさ、かなしさ。あるいは。

わたしの文章を、自分以外にもこんな風に思っているひとがいるなんて、と言ってくれたそのひとは「自分を愛するとか、全然出来ない」とも言った。夕方の、とても綺麗な時間に誰もいない静かな小道を歩きながら。わたしはだけど、問いを含んだその言葉にうまく答えることが出来なくて、そのことをずっと小さく悔いている。

自分を愛するということはたぶん自分を受け入れるということで、それというのはたぶん、自分を背負うということなんじゃないかなということを最近は考える。自分が自分であるという自負を持つこと。名前や顔を持つことと言ってもいいかもしれない。
わたしがNozomi Nobodyとしてステージに立つこと、自分の音楽や歌に何らかの期待を持ってくれているひとたちの気持ちに応えるのだという覚悟を持つこと。わたしがNozomi Nobodyとして言葉を綴り発するとき、嘘偽りのない自分自身をさらけ出しそれに対するいかなる反応も受け入れるという覚悟を持つこと。

わたしはずっと自分を愛せなかった(し、いまは、どうかな、少しは出来るようになったけど、それでも自分が自分であることがどうしようもなくつらくなる瞬間というのはやっぱりある)。だから、ずっと「自分なんて」とか「自分ごときが」みたいに思っているところがあり、そしてそういう自分を擁護するためにちょっと斜に構えて物事やひとを見たりするようなところがあった(し、これはたぶんいまもまだある)。だから自分に向けられた賛辞さえも、素直に受け取ることが出来なかった。自負や自尊心といったものが圧倒的に欠如していた。だけど、それらを持たないものがステージに立つ資格はないな、とあるときに思ったのだよな。そうして、自分が自分であることにもっとちゃんと覚悟を持たなくちゃいけないと思うようになった。そしてそれはたぶん、自分を大切に思ってくれているひとたちを大切にするということと同義で、そしてそれはつまり自分を大切にする、愛する、ということなのかも、と、思ったのだった。

生きることは苦しいから、すぐに逃げたくなる。こんなこと本当は書くのすごく憚られるけど、すぐ死にたいと思っちゃう。これはなんていうかもう思考の癖みたいなものなのだろうと思う。でもそれももうやめなきゃな、とこの数日は考えていた。死にたいと思うことは生きることに対する逃げだからだ。自分が自分であることの覚悟を持つのと同じように、生きる覚悟も持たなくちゃ、とようやく思っている。
意思を持つこと。意思を持って、生きること。

最近会っていないバンドマンの友達が、アコギを持って「生きるつらさ、生きるつらさ、生きるつらさ」と弾き語っている動画をTwitterで見かけて、それがなんかずっと心の中にある。久しぶりに会いたいなと思ったけど、連絡しないまま日々が過ぎている。

今日も明日もあさっても、ずっとつらくても苦しくても、でも、生きる。ときどき休んだりサボったり文句言ったりしながら、だけどなるべく健やかに、できれば、強く。

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