とくにテーマも決めずに書き始めたなにか
2022年3月29日火曜日、ただいまの時刻は13時15分を少し回ったところ。
noteの編集画面を開いたものの、何を書くか全く思いつかないのぞみん(@NozomiN_Poker)です。
本来であれば「あれについて書きたい」と思ったことがあり、まずはじめに記事の見出し構成を「Dynalist」というアウトラインプロセッサで仮置き。
それぞれの見出しに書くことを簡単にポコポコ書いて、ドラフト(いわゆる下書き)を作ってから、やっとこさnoteの編集画面で作業をするという流れです。
ところがどっこい今はそんな過程をすっ飛ばしてnoteの編集画面である。
もちろん記事のタイトルなんて決まっていない。
…………ここまで書いたところで一旦ポーカーチェイスをプレイしていた。ただいま。
ステージⅥで2戦、5-3で今のポイントは2314。
![](https://assets.st-note.com/img/1648532089010-L7Sd8hQ8cC.png?width=1200)
2戦だけやって戻ってきたわけですが、その間、特に何を書くかなんて決めておりません。
「である調」と「ですます調」が混在した、あまりにも純白でカオスな原稿を前になす術もないのです。
…………ここまででおよそ470字ほど。
「自由に書く」というものは、我々人類にとってあまりにも不自由なのだ。
流石にこのままだらだらと駄文を綴るのは生産性がないので、ここらでテーマを決めよう。
文章に明確な答えなどない
文章を書くことを含め、絵を描いたり動画を編集したりといった創作において、なにかしら「不自由であること」が大切だと考える。
私はいまWEBライターとして仕事を請けたり、noteで文章による情報発信をしているけれど、小さい頃から文書を書くのが好きだったわけではない。
むしろ文章を書くことを嫌悪していたと言っていい。
とくに小学生のころの「作文」というものが大っっっっ嫌いで、おそらく最後まで自分の文章で書き上げたのが、卒業文集が最初で最後だと思う。
ぐちゃぐちゃになった書きかけの原稿用紙が、いつも机の中に放置されていた。
どうしてそんな事になっていたかといえば、ここでも「自由」という不自由に縛られていたからだと今になって思える。
教師は「自由に書け」とは言うが、自由に書いたものを提出してしまえば、やれ「漢字が間違っている」だの、やれ「表現がおかしい」だの、はたまた「そんな考え方は不適切」だので赤ペンで細々と修正が入る。
あまりにも修正点が多すぎると最悪書き直しとなったのだ。
いい子ちゃんだった私は、はじめは自分の考えなどそっちのけで「先生に直されない作文=100点満点の作文」を目指したが、それでも修正、修正、また修正。
当時の私は明確な解答が欲しかった、でも創作に答えなんてないのである。
そうしていると次第に「私が書く意味ある?」と感じるようになった。
「自分の言葉で書いたものが大人によって直されて発信されるんだったら、最初から大人が書けばええやん」となる。
その結果として、作文を書く授業がある日は仮病で休むような少年になった。
……とまあこんな昔ばなしをしたわけですけども、いま現在は先にも言ったとおり「ライター」として仕事をしたりnoteで情報発信している私がいます。
なぜ文章を書くようになったのかを書くべきなのでしょうが、今の時点でこの記事の文字数は1300字を超えたところ。
なので、この先はまたの機会に書くことにしようと思う。
(記事のネタがひとつ決まったぞウッシッシ)
結局「である調」と「ですます調」が混在したままだが、ここでは直さない。めんどくさい。
それと、いつもだったら記事公開のタイミングでTwitterでも「記事公開したよーみんな読んでねー!」と告知するのだが、今回はそんなことはしない。
もともと生産性のない文章を書くようにしていたので、今回はたまたまこの記事を見つけて読んでもらえる、それくらいのスタンスでいきます。あーまたですます調だ。
ではでは。
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