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唐沢俊一氏のおもひで

 2024年9月末、唐沢俊一氏が亡くなった。孤独死だったそうだ。
唐沢氏とは1990年代後半から2000代後半あたりまで私的な交友があったので、とりとめもなく記憶の限り幾つか書き留めておきたい。何年かでも関りを持っていた人が他界したのにダンマリというのは気持ちが悪いからだ。

  私と交流があった頃の唐沢氏は、講談社、アスペクト、扶桑社ほか様々な大手出版社にコネがあり、精力的に文筆業やエッセイを書き、定期的に書籍も発売していた。年賀状や暑中見舞いもよく頂いたものだ。

▲もう無効だろうとは思うがメールアドレスは伏せておく

 1999年頃だったと思うが、人伝に唐沢氏が足を骨折したと聞いた。もともと片脚が不自由な人ではあったが、もう一方の脚が折れていたら難儀ではないのかと思い、見舞いに行くことにした(健康な方の脚は無事だった)。私は映画秘宝とゴタゴタがあり(自分は編集部から不義理をされた側)、頭に来て洋泉社の本は買っていなかったのだが、本の虫の唐沢氏に見舞いの花など持って行っても喜ばないので、映画秘宝COLLECTIONと銘打った『モンティ・パイソン大全』(洋泉社・刊)を買って行った。もともとモンティ・パイソン好きな人だったこともあって大層喜ばれた。その頃に送られた暑中見舞いのハガキが昨日見つかったが、確かにこんな状態だった。

 唐沢氏と私との共通の知人に、元・東映プロデューサーの平山亨氏がいたので、平山氏と電話で話している時に唐沢さんが足を骨折しましたよ、と教えるとビックリして「え! 大丈夫なの!?」と心配された。自宅で本の山につまづいて転倒した時に骨折したらしいですと教えると、ガハハと笑いながら「いやぁ、アイツらしいなぁ。うん、ありがとう。お見舞いに行ってみるよ」と笑っておられた。後で唐沢氏から聞いた話だが、私の電話を受けた翌日には入院先に見舞いに訪れたらしい。

2000年代初頭は私が都内の編集プロダクションに勤務していたが、円谷英二とウルトラマンに関わる書籍とムックに随分関わった。2001年の自分の編著『素晴らしき円谷英二の世界』では、円谷英二と仕事を共にした人や、その影響を受けた業界人&文化人にインタビューと寄稿をお願いして周り、唐沢氏にも寄稿をお願いした。近影撮影のために渋谷のオフィス兼自宅マンションに伺ったら、本棚がギッシリと埋まっており、結構立派なお住まいだったのを覚えている。

しかしこの本、裏表紙に名前が載っている錚々たる人ひとりひとりに交渉と取材をお願いして、写真撮影やらテキスト起こしまで八面六臂だったのだが、改めて見ると表紙・背表紙はもちろん、本の奥付にも編著者の私の名前が載っていないのは酷い話…(笑)。いやいや笑い事じゃないんだが。2003年には唐沢氏のプロデュースする河出書房新社の書籍『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』に呼ばれて少々原稿を書いた。

 出版後に渋谷の沖縄料理店で打ち上げをした際、帯の執筆者が集まり、私の向かいに実相寺昭雄監督がいたので、とてもここに書けないような映画業界の暗黒話を聞かされてみんな爆笑していた。打ち上げの席に可愛らしい女性が同席していたので、河出書房の編集者かな? と思っていたら、表紙カバーや本文中に載っているヌードモデル御本人と聞いてビックリしたのを覚えている。いやはや懐かしい。

 2003年2月頃、新宿の松竹ビデオハウスが閉店することになった。
現在はシネコンになっている新宿ピカデリーが、まだ新宿松竹会館だった頃に同じビルに入っていた、松竹直営のビデオショップである。閉店にあたり、店内の商品全て半額処分と貼り紙が出ていたのを見て、ピカデリー前から唐沢氏にその旨を教えた。後日知ったが、電話を受けてすぐ渋谷のオフィスからタクシーで新宿までビデオを買いに来たらしい。思い立ったら即・行動に移しちゃうという人であった。

▲この写真の右端に見える”VIDEO”という看板が松竹ビデオハウス。2000年春頃撮影

 この時のビデオ店の不況話を当時、講談社でWeb連載していた唐沢氏のエッセイ『近くへ行きたい』でネタにされていたのだが、「Web現代」から引用しようと思い検索しても見つからない。まぁ20年以上前の連載だしサーバーから削除されたのだろう。故人の供養の意味を込めて、私がプリントアウトした紙素材から復刻しておこう(※クリックで拡大します)。

その後、次第に唐沢氏は演劇や舞台の方に傾倒していった。疎遠になって行きつつも、最後に会ったのは多分2010年か2011年頃。ロジャー・コーマンのドキュメンタリー映画『コーマン帝国』のマスコミ試写を一緒に観に行った時だった。その頃はまだ羽振りが良かったのか、帰りに馴染みの定食屋とやらに連れて行ってもらい、晩飯をご馳走になった。それからとある正月、唐沢氏に宛てた年賀状が宛先不明で返送されてきた。郵便物の転送手続きもしないまま転居したのだろうか? と不思議に思ったが、連絡先が分からなくなったことでますます遠い人になって行った。

 そのうち、UFO関連の文書を他所のBLOGから転載したとかの剽窃騒動を目にしたり、周辺でもあまりよくない噂話を聞いたが、氏とは良い思い出も多々あったので聞きかじりの情報だけで余計なことを言うのは控えていた。ただ、熱心に連載を抱えて本をバリバリ書いていた頃から、次第に演劇にのめり込んでいった時期を傍で見た私なりの考えだけど、演劇に傾倒したことで身を持ち崩したのは間違いないだろうと思う。ここ2日ばかり、信用のおける筋から入手した話では剽窃騒動に関係なく、演劇に没頭して以降は既に文筆業の熱意を失っており、文章の仕事を依頼したクライアントに多大な迷惑をかけていたという。要するに剽窃に関わりなく、本人の不義理と不摂生でライター業が減って行ったのだ。収入がなくなって家賃が払えずネットカフェ難民のような生活をしたり、ワンルームの部屋に机ひとつ椅子ひとつという侘しい晩年だったとも聞いている。どうしてそんなことになってしまったのだろう。私と交流があった頃は、それはそれは多くの人脈と出版社とのコネクションがあったのに、だ。食費や生活費、交通にかかる雑費、携帯電話の料金などは、どうやって工面していたんだろう……

 数年前にSNSで「カラサワ」というアカウントを見かけた時、本人か、なりすましの別人かと思っていたが、どうも御本人だったようで別アカウントでは過激なモノ言いの論客っぽくなっていたのを知り、大変残念に感じた。私と疎遠になった頃と、氏が演劇に傾倒して資金繰りに苦しくなっていった時期がほぼ一致するので、やはりこの10年でかなり生活環境が激変し、困窮に至ったのだと思う。もっとも当時それを知ったとしても貧乏ライターのワタクシ如きが何かしてやれたわけでもない。話術は巧みだし、声は良いし、雑談の引き出しがあれだけあった人が、誰にも看取られずにヒッソリと亡くなったことには幾ばくかのショックはある。毀誉褒貶ある人物というのは同感だが、思い返すと何だか無邪気な子供っぽい笑顔が浮かぶ。いや本当に、何故あんな風になってしまったのだろう? とひたすら考える。縁が切れて10余年経つとはいえ、それなりの期間は関りがあった人の死は、やはり複雑な思いが去来する。今更言っても詮無いことだが、演劇みたいな畑違いの所へ行かず、文筆だけ続けていれば良かったのになぁ。

▲ 2006年夏に届いた暑中見舞いのハガキ

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