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ゲームの中で、なぜ僕たちは高いところに行きたがるのか?


「ゲーム世界に高い塔があったならば、そのてっぺんまで登れるように設計しておかなければならない」

 これはゲームのマップデザインの基本です。大作ゲームと呼ばれるものは、みんなそのように作られています。

 なぜか。人間とは、そうい生き物だからです。高いところがあると、その頂上に立ちたくなる。「馬鹿と煙は高いところに行きたがる」とはよく言ったもので、せっかくゲーム世界という非現実空間にいるのだから、みんな率先して馬鹿になるわけです。

 このコラムは「ぼくらは、なぜ高いところに行きたがるのか」というタイトルにしましたが、答は「そういうものだから」です。理屈じゃないんですよ。みんな馬鹿になるんですゲームの中では。

  ――と、シンプルに結論を出して話を終えてもいいのですが、もう少し詳しく説明しましょうか。しばしおつきあいください。



 まずは、テレビゲームと、映画やアニメなどの映像作品との決定的な差異について説明しましょう。

 映像作品では、遠くに山が描かれていたとしても、その山は背景に過ぎません。「山の見える地域に暮らしているんだな」という情報を伝えるために描かれたのかもしれないし、「人類は大いなる大自然に見下ろされている」という意味が込められているのかもしれません。ただ奇麗な映像だなと思ってもらうために描かれているのかもしれませんが、いずれにせよ「見せるために描かれている」のです。

 ゲームは違う。遠くに山が見えていたらなら、それは「いずれ、その山に登れる」ってことになるんですよ。

 ゲームはコントローラーを介して「操作する」メディアですから、その世界のあらゆるものに「触れる」ことができるようにしてあるはずなんです。原則として、ゲームの世界では「見えるものは、触れてもらうために描かれている」のですね。

 だから、そこに山が描かれているなら、プレイヤーは山道を踏みしめ、崖を這いあがり、頂上に立てるようになってるはずなんです。それがゲームという娯楽品の特徴なのです。



 いま流行りのメタバースが、なかなか大衆の心をつかみきれていない理由が、ここにあります。

 渋谷の街を再現しました! みたいなメタバースがあります。本物そっくりなビル群を作り、あたかも渋谷にいるかのような気分になって、自由に歩けますよ――みたいなやつです。

 でもね、これじゃダメなんです。世界の作り方が「映画と同じ」になっているからです。

 メタバースというのは、コントローラーを介して参加する遊びですから、ゲームと似た娯楽です。ならば、メタバースに渋谷の街を作ったとき、そのビルの外壁は昇れるようにしておくべきなんですよ。

 「このビル、登りたいな」と思ったプレイヤーが、外壁をつかみ、這いあがり、ビルの屋上に立てるようにしておくべきなんです。現実世界では、そんな馬鹿げたことは実現不可能なわけですが、せっかくメタバースを作ったんだから、ちゃんと「馬鹿げたことを実現できるようにしておくべきだろ」という話です。



 じつはこれ、優れたゲームは、マップデザインそのものが「インターフェイスになっている」という話でもあります。

 「インターフェイス」と書くと堅苦しいですが、つまりは「いるだけで楽しい気分になる」ってことだと考えてください。「さあ、次は○○をしようかな」という気分を発生させ続ける仕組みだ、と言い換えてもいいでしょう。

 わかりやすい例を出しましょうか。

ダンジョン内で宝箱を発見したときの簡略図です。


 昔懐かしいタイプの2Dゲームを簡略化したものだと思ってください。プレイヤーはダンジョンの中にいます。そして、右上に宝箱があることを発見しました。
 
「あの宝箱を取りたい」
「どうやったら取れるんだろ」

 ここで、多くの人がそんなことを考えます。はい。これが「動機」が生まれた瞬間です。プレイヤーの心の中に「次は、○○をしてみよう」という感情が生まれました。

 映画ならば、洞窟に宝箱がたくさんある様子が描かれたとしても、それは「宝箱がたくさんある」という情報を伝えるためのものに過ぎません。物語が進んでいく中で、主人公がその宝箱を開けるかどうかはわからない。開けないことも多いでしょう。

 でも、ゲームは、その世界に描かれているものすべてに「触れること」ができるはずなんです。そういう暗黙の了解がある。だから「宝箱が見えた」とき、いずれ「触れることができる」と、プレイヤーは確信するのです。

 このようにして、文章で何かが書かれているわけではないのに、ただマップ上に「気になるもの」が配置されているだけで、ぼくたちの心の中には「次は、こうしよう」の感情が芽生えるんですよ。作り手側に立つならば、プレイヤーの興味を引き、ゲームをプレイし続けようという気持ちを持続させるよう、うまくマップを利用している、ということです。

 マップデザインそのものが「ユーザーインターフェイス」になっている、というのは、こういうことです。優れたゲームクリエイターは、優れたマップを作ることによって、プレイヤーの気持ちを誘導できるんです。



 マシン性能が低く、ソフトの容量が少なかった時代には、上記のダンジョンのような「わかりやすい形」で動機を生んでいたわけですが、いま、ゲームは3Dになりました。

 すると、ただ「物を置く」だけではダメになった。遠くに何かを配置しても、遠いところにあるものは小さく見えますから、プレイヤーに気付いてもらえなません。

 そこで、どうしたか?

 3Dのゲームでは「大きいもの」「高いもの」を用意するようになっていったのです。高い山、高い樹木、高い塔などです。こうすれば、プレイヤーは「あれ? 遠くに、気になる形状のものがあるぞ」と気付きます。

 ゲームの世界では、見えるものは、触れることができる。

 プレイヤーは、そのことを知っている。だから、あの「高い何か」のところに行けば、きっと何かが起きるに違いない――と、プレイヤーは直感するわけです。ダンジョンの中に宝箱を発見したときと同じ心理が働き、そちらに向かいたくなるんですね。



 だからこそ、ゲーム世界に高い塔があったならば、そのてっぺんまで登れるように設計しておかなければならないのです。

 ダンジョン内に宝箱が見えて、いざ宝箱ののところまで行ってみたら、「ただの模様だった」「触れること(開けること)ができなかった」としたら、興ざめですよね。ふざけんなよ、と怒るでしょう。

 それと同じように、3Dゲームにおいて高い塔があったら、それは登れなくちゃいけないんですよ。せっかく遠くから見つけて、その場までやってきたんだから、ちゃんと触れるようにしておかなくちゃならないのです。




 とはいえ、世の中にはいろいろな人がいる。高いところに興味のない人もいます。てっぺんに立ちたい、というモチベーションを持たない人もいるわけです。

 こんな人にしてみれば、遠くに何かが見えたとしても、それが「そこまで行ってみよう」というモチベーションにはなりません。これでは、ゲームを作る側としては困ってしまうわけです。

 だから、優れたゲームは、序盤で強制的に「高いところ」にプレイヤーを移動させるんですね。『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の物語の序盤で、プレイヤーが強制的に「塔のてっぺん」に連れていかれるのは、そのためです。

・高いところって、気持ちいいよね!
・遠くを眺めて、気になるところをチェックしてみようね!
・気になるところに行くと、物語が進むよ!

 と、ひとつひとつを順を追って体感させ、「高いところに行くと、いいことがある」とプレイヤーに学習させるんですね。

 これによって、プレイヤーは遠くに「高いもの」を見つけると、そちらに向かって進めばいいんだな、これはそういうゲームなんだな、と理解するわけです。こうしてプレイヤーの興味を引き続けることで、広大な世界を飽きることなく冒険させてしまうのが、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』というゲームの巧みなところ。このゲーム、ほんとに序盤のチュートリアル部分が上手いんですよね。

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