野安の電子遊戯工房 ~話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみた~


 ネット上で話題になっていた「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみました。なるほど、これはネット上で嘲笑の声が出まくって当然、という本でした。

 わたしが気付いただけでも、事実誤認がたくさんありました。

 とはいえ、ゲームを語るときに事実誤認があることは、たいした問題ではない――ということは、まず明言しておきましょう。この本が、ゲームに関わっている人たちの怒りを呼び、また呆れさせている根本的な要因は、そういうところにあるのではないのです。

 (前略)単にコンピュータゲームの盛衰を社会現象として辿るというものではなく、かといってゲームプレイの魅力を個人の経験に基づいて語るというものでもなく、ゲームという新しい技術あるいはメディアの登場がいかに二一世紀を生きる私たちの生と認識を規定しているか、その連関を探る~(後略) [P.006]

 というスタンスからゲームの話題を取り扱うと宣言しているところに、じつは最大の問題があるのです。そのスタンスで臨むなら、絶対に必要であるはずの覚悟が、圧倒的に不足している。そこがゲームを愛するものたちの神経を逆なでしてしまったんです。




 ゲームというのは"体験"を提供する娯楽です。そして"体験"というのは個人的な記憶にすぎませんから、それを語るとき、かならずしも正確なものではなくなります。その代表的なものが、過去の体験が美化されてしまう、思い出補正と呼ばれるものですね。

 書籍ならば、該当箇所だけを読みなおすことができますし、映像作品も同様です。論述するにあたり、自分の記憶が間違っていなかったかどうか、後に確認することができます。

 でも、テレビゲームでは、それができません。新しい操作を指になじませ、やっと敵キャラを倒せようになった! という"体験"が、いかに素晴らしいものであったのか、その操作を使いこなせるようになってしまった今の自分には、もう検証することができないからです。

 テレビゲームとは、そんな一度きりの素晴らしい"体験"を、いかにして提供するかに心血を注ぎ、緻密な計算の上に組み上げられた娯楽コンテンツなのです。そこにこそ、テレビゲームという娯楽が持つ最大の特徴があるのです。

 ゆえに、このような特性を持つテレビゲームという商品について、なにかを論述しようとするとき、それはゲームプレイの魅力を個人の経験に基づいて語るというスタイル以外にはありえません。そのゲームが、いかに素晴らしく、いかに面白く、いかに革新的であるかは、個々のプレイヤーの記憶の中にしかないのですから。




 また、テレビゲームは、プレイヤーによって違う"体験"を提供する娯楽でもあります。

 さきほど例として挙げた、新しい操作を指になじませ、やっと敵キャラを倒せようになった! という"体験"は、すべてのプレイヤーに共通するものではありません。猛烈に苦労した人もいれば、一発でクリアしてしまう人もいるからです。プレイヤーによって、そこで得た"体験"は、それぞれ違うものになるのです。

 はるか昔に、ゲームにはレベルという概念を取り入れました。さらにはキャラクターのパラメータの成長度合いがプレイによって変化するようになりました。いまではオープンワールドのような、どの順序で各地を巡るかの自由を与えるゲームも増えています。ゲームの中で、まったく同じイベントを体験するにしても、そこに至ったときの主人公の状況は、まるで違うものになるのです。

 このため、わたしたちは同じゲームをプレイし、同じように「面白いっ」と感想を語ったとしても、「あのイベントが凄かったよね」と特定の箇所を絶賛し合ったとしても、じつのところは同じ"体験"について語っていない、という不思議な現象が起きるのです。そのイベントに到達したときの主人公のレベル、各種のパラメータの数値、所持しているアイテムなど、まるで違うものになっているため、ぜんぜん違う"体験"をしている可能性が高いからです。

 わたしたちは、同じゲームについて語っていても、じつは別々の"体験"について語っていることになるんですよ。これがテレビゲームという商品が持つ、きわめて大きな特徴のひとつなのです。




 わたしのように、ゲームについて語ることを職業としている者は、このことを強く自覚しています。自覚していない人もいるかもしれませんが、本能的に知っています。

 だからこそ、わたしたちはゲームについて語るとき、ゲームプレイの魅力を個人の経験に基づいて語るというスタイルをとるのです。それ以外に、確信をもって語れることなんて、なにひとつないことを、痛いほど知っているのです。

 とりわけ、100時間とか200時間とか、そのていどしかプレイしていないゲームについては、断定的なことなんて怖くて語れません。

 たとえば、アメリカに住む20歳の青年と、フランスに住む40歳の大人と、マケドニアに住む10歳の子供と、インドネシアに住む70歳の老女は、それぞれ違うところを「面白い」と感じるという体験をしているはずですが、それぞれの"体験"がどのようなものだったのか、100~200時間程度の浅いプレイ時間しかない段階では、想像することすらできないのです。そして、他のプレイヤーが、どのように楽しんでいるかを想像することすらできない作品につて、断定的に語ることなんて、あまりに怖く、できるはずがありません。

 それは小説や映画でも同じじゃないのか? 年齢や性別、国籍によって、作品を受け取るときの感想が違うものになるのは当然ではないか? と思うかもしれません。

 違うんです。テレビゲームは、さまざまな人たちが、それぞれ違う"体験"をすることを、最初から織り込み済みの上で作られているからです。

 テレビゲームは、いろいろな年齢の人、いろいろなゲーム体験の人、いろいろな国籍の人のテストプレイを経て、「この人は、こういうところを面白がり、でもこういうところで躓くのか」というデータを得て、それをゲーム内にフィードバックすることで磨き上げられるものです。大作ゲームともなれば、それは当然の製作過程です。

 つまり、テレビゲームというのは、あらゆるプレイヤーが、いろいろな"体験"をすることを想定して作られており、つまりはプレイヤーごとに違う"体験"をさせるための装置の集合体でもあるのです。しかし、わたしたちは、そのすべての装置を知ることはできません。わかりやすい例をあげるならば、ゲームの上手い人は、ゲームが下手な人に楽しい"体験"をさせるための装置には、けして気付かない、ということです。

 これこそがテレビゲームの特性であり、小説や映画のように、作者が完成品を生み出し、それが世の中でどのように評価されるか? と問う形で提供されるコンテンツとの根本的に違いでもあるのです。




 だから「ゲンロン8 ゲームの時代」の中での、ゲームの取り扱われ方は、ゲーム業界関係を苛立たせるのです。

 わたしたちが、ゲームについて個人の経験に基づいて語るスタイルをとり、けして断定的なことを書くところに踏み込まないのは、そんなゲームの特性を知っているためです。「このゲームは、こういうことだよね」と断定するような論述に踏み込むには、相当の覚悟が必要になり、おいそれと手を出さないのです。それは恐ろしいまでの労力も必要になります。

 なのに「ゲンロン8 ゲームの時代」は、その領域に、覚悟もなく、労力もかけずに踏み込んできた。

 『スプラトゥーン』はとてもよくできたゲームだと思います。FPS/TPSを日本のカジュアルユーザーにどう普及させるかということを、とことん考え抜いた解だと思います。モンスターと銃ではダメなので、イカと絵の具でいけば大丈夫なのではないかという発想ですね。[p.068]

 といった記述などが、その典型です。まず指摘しておきたいのは、これが明快な事実誤認であること。『スプラトゥーン』がFPSやTPSとして製作されていないことは、任天堂の公式サイト内で公開されています。製作過程の初期段階の画像なども提示されていますので、任天堂が嘘をついている可能性はゼロといっていい。

 ただ、何度も言いますが、事実誤認があってもいいんですよ。わたしは『スプラトゥーン』がFPS/TPSをカジュアルにしたゲームだと感じたのだ――と、個人の経験に基づいて語るというスタイルをとっていたのなら、とくに問題はないんです

 たしかにゲームシステムそのものはFPS/TPSに近いものですし、だから海外のゲーマーたちが集うサイトでは、これをFPSに含めてはいけないという声もある一方、いやFPSとして捉えるべきだという声もあるほどです。

 だから個人としてプレイした経験をもとに、これをFPS/TPSをカジュアルにしたゲームだと感じ、その思い込みをもとに事実誤認となることを書いたとしても、さほど大きな問題ではなく、「そう勘違いする人もいるけど、それは間違いだぜ。ちゃんと公式サイトを見ろや」と指摘されるくらいで済む話なんですね。

 しかし、ゲームプレイの魅力を個人の経験に基づいて語るというものでもなく~(攻略)と冒頭に宣言しているのなら、話は違う。

 相当な覚悟とともに踏み込んできたかと思いきや、『スプラトゥーン』はFPS/TPSをカジュアルにしたゲームだ、といったプレイヤー個人の体験に基づくとしか考えられない事実誤認の記述があったら、そりゃあゲーム関係者に嘲笑されてもしょうがないです。

 こういう記述が、一か所だけでなく、けっこうたくさんあるとなれば、そりゃあ怒る人も出てきますよ。当然でしょう。

 以上、「ゲンロン8 ゲームの時代」の冒頭を読んだだけの段階ですが、とりいそぎ、気になることについて書いてみました。今後、まだ続きを書くかもしれません。




 さて。ちょっと真面目なことを書きすぎたので、最後に、ちよっとだけ別視点からのダメ出しをしておきましょう。

 あのですね、『スプラトゥーン』について論評するなら、それをFPS/TPSの系譜としてとらえるなどという、手垢のついたことはしないでほしいなぁ。それって、あまりゲーム知らない人が、とりあえず思い付きで口にするような分析(そして詳しい人に瞬殺で論破されるヤツ)じゃないですか。

 せめてさ、「これは閉鎖空間内で、塗ることで陣地を広げていくゲームである。そこにはマップ内をくまなく走破することを目的とするドットイートと呼ばれるゲームとの類似点を多く見い出すことができ、ならば『パックマン』の現代的リメイクと位置付けるのがふさわしいのではないか」くらいまでは、最低限、踏み込んでほしいです。

 そのあたりまで踏み込んできたら、ちょっとくらいの事実誤認があっても、ゲーム業界関係者は「間違いもあったけど、面白ぇ視点で分析してきたなぁ」と、それなりに好意的に受け止めてくれたと思いますよ。各ゲームの分析が、そのレベルまでぜんぜん到達していないところが、じつは最大の問題なのかもしれません。

(2018/06/21)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?