野安の電子遊戯工房 ~テレビゲームとスポーツは、似ているようで、ちょっとだけ違う(その4・完結編)~


 テレビゲームとスポーツは、似ているように見えて、ちょっとだけ違うんだよ——という話の完結編です。

 テレビゲームとスポーツでは、「公平さ」の意味が違います。

 すべての参加者に、同じルールを適応するのが「スポーツにおける公平さ」です。それに対し、いやいや参加者によって実力が違うんだから、実力に合わせて違う体験をさせてもかまわないし、そうすることでみんなに等しく満足してもらおうとするのが「テレビゲームにおける公平さ」なのですね。

 ただし、テレビゲームと呼ばれる商品の中には、スポーツと同様に「全員に同じルールを適応する」というものもあるので、一概には言えないんですけどね。

 ——というのが、これまで3回のコラムで書いてきた概略でございます。




 これを図にすると、こうなります。

 「テレビゲーム」という大きな括りの中に、「スポーツのように、全員に同じルールを適応するソフト群」が含まれる、という形になるわけですね。それらのスポーツのようなゲームを、ここでは便宜上「ガチゲーマー系」と名付けておきます。

 もっとも、ガチゲーマー系のテレビゲームの中にも、初心者が楽しめるよう「最初の頃はハンデが与えられる」ようなものがあったりするので、この分類は厳密なものではなく、あくまでも感覚的なものだ、とご理解ください。

 で、この水色で塗られている「ガチゲーマー系」のソフト群ですが、その存在感が、国や地域によって違うんですよ。

 たとえば日本では、こんな感じでしょうか。

 全員が同じルールで競い合うような、ガチゲーマーさんたち御用達のゲームは、やや存在感が薄いのですね。

 これは自分の知人・友人・家族などを思い浮かべていただければ、なんとなく納得していただけるでしょう。「ちょっとでもゲームをプレイする人」は、かなりの人数になる一方、「腕を磨いて競うことこそ、ゲームの面白さだ!」というタイプのガチなゲーマーさんって、かなり少数派になるかと思います。

 一方、北米(をはじめとする海外)では、こんな感じになるでしょう。

 「ガチゲーマー系」のソフトが、日本より存在感を増すのです。このあたり数値的なデータがあるわけではなく、かなり感覚的ではあるのですが、ワールドワイドなゲーム売り上げランキングの上位を眺めるかぎり、ガチなゲームの存在感が高い、と推測していいんだと思います。

 海外でe-Sportsというイベントが巨大化したのは、「スポーツのような公平さ」を持つガチゲーマー系のゲームの存在感が大きいからだ、と分析していいのかもしれません。




 さて。

 ついに、ここから本当の結論です。

 このように、それぞれの地域での歴史的経緯の違いにより、日本と海外では、それぞれ違うゲーム文化が育ちました。

 なので、日本において「ゲーム大会の多くが、e-Sportsと名乗ろうとしているという昨今のムーブメントに」に対し、わたしは、ささやかな懸念を抱いているのです。

 いや、e-Sportsが人気になるのは、いいことなんですよ。

 でも、日本では、ちょっとばかし間違った方向に進んでいないかなぁ? と思わずにはいられないんですよね。ほんのり違和感があるのです。




 つまりですね。

 図にも書きましたが、日本では「全員に同じルールを適応しなくていいじゃん」というゲームが主流派なんですよ。

 とすると、そういったゲームを"Sports"を名乗るイベントの種目として採用するのは、すごく難しくなっちゃうはずなんですよ。だって、それらは、厳密な意味での「スポーツとしての公平さ」を持っていないゲームですからね。

 わかりやすい例が、ガチャ課金のあるゲームでしょうか。追加で課金をすると強くなれるゲームですね。

 ガチャ課金のあるゲームは、ビジネス的にはいろいろな解釈ができるのでしょうが、ゲームの仕組みだけに注目して分析すると、つまりは「お金を払えば、よりゲームを楽しめるサービスが受けられますよ。どうしますか?」と提案する仕組みのゲーム、と言っていいわけです。

 ゲームはサービス業である——という視点に立つならば、これは何の問題もない仕組みです。お客様が高い金額を払ってグリーン車に乗ったり、ファーストクラスに乗ったり、それによってより快適なサービスを受けたからといって、文句を言われる筋合いはありません。

 忙しくてゲームをする時間が取れない人や、そもそも実力が弱い人が、その不足分を補うために「楽しむ権利を、お金で買う」という行為をしたからといって、なんら変な話ではないんですね。ガチャ課金ゲームというのは、ゲーム弱者であっても、きちんと満足してもらうため仕組みを持っているということであり、サービス業としての「公平さ」の発展形ともいえるからです。

 でもね。

 そういったタイプの「公平さ」を軸に据えたゲームが、スポーツを名乗る大会で、賞金のかかったトーナメントなどをやってしまうと、話は変わってきちゃうわけですよ。法律的にもいろいろな問題があったりしますが、それ以前の問題として、なんかおかしいだろそれ! ——と、ゲームファンが思ってしまうんですよね。

 ようするに、「サービス業的な意味での公平さ」を軸に据えたゲームが、「スポーツ的な公平さ」のもとに行われるイベントに出てくるのは、いくらなんでもルール違反だろ! ——と、反感を買ってしまうことになるわけですね。




 ここで、ちょっと法律的なことを言うならば。

 世間一般のアーケードゲームも、強くなるためにはたくさんプレイする必要があり、たくさんお金をつぎ込まなければならないわけですから、お金を払ったほうが有利になるゲームである——という意味においては、ガチャ課金制のゲームと、根っこのところの構造は、さほど変わりません。

 少なくとも、法律上は、ガチャ課金のゲームも、アーケードゲームも、いざ大会を開くときには、似たような課金構造のゲームだと分類されるんじゃないかなぁ。

 でも、そういった法律的なことはさておき、ゲームファンの心理からすると、アーケードゲームの上級者の戦いは「ガチなゲーマーによるアツいバトル」であると認識しますが、ガチャ課金のゲームでは、そのように認めない人が多くなるはずなんですよね。

 このあたりの差は、すごく面白いところですよね。

 でも、これって、わたしが最初から書いているように「公平さ」の違いに起因する問題なのだ——と考えると、すごく腑に落ちるはずです。ガチャ課金というのは弱者救済のための仕組みであり、ゲームが上手くない人をフォローするための、「サービス業的な公平さ」を保つための仕組みなんですよね。

 だから、そういう仕組みを持つゲームは、「スポーツ的な公平さ」を競う場に出てくるんじゃねーよ! と、ゲームファンは感じるわけです。それが反感の声として世の中に出てくるんですね。




 話がそれました。戻します。

 このように、「サービス業的な公平さ」を軸にしたゲームが、スポーツを名乗る大会の種目になってしまうと、そこでは反感の声があがりやすくなるわけです。

 でも、ちょっと上の図で示したように、日本においては、そういった「サービス業的な公平さ」を軸にしたゲームこそが、ゲームビジネスの主流派なんです。大ヒット作の多くがこちらに属するんですよ。

 とすると、テレビゲームの大会をe-Sportsと名付けてしまうと、日本における「一般人がよく知るメジャーなタイトルが、参加しにくくなる」という結果を生みかねないんですよね。

 それは、あまり得策ではないだろう——と、わたしは思うんですよ。

 せっかく、ゲーム大会という、つまりは上級者のゲームプレイを楽しむというイベントを根付かせようとする中で、そこには「世間一般で知られるような大ヒット作」が参加しにくいとなったら、それ、あまりいいことではありませんからね。




 だからね。

 わたし、日本では、e-Sportsという名前を、もっともっと軽く扱ってしまっていいと思ってるんですよ。

 でもって、「テレビゲームの大会は、もはやスポーツと同じだ」などというお題目は気にせず、あらゆるゲームの「大会」を開き、イベントとして成立させる方向へと進んでほしいなぁ、と思うんです。

 日本における大半のヒットゲームは「スポーツ的な公平さ」を持っていないんですから、だったら、日本でのゲーム大会は「スポーツ」を名乗らなければいいんです。

 たぶん、それなら、誰も反感なんかおぼえません。

 さきほどのガチャ課金制のゲームだって、「莫大なお金をつぎ込んだ、数寄者たちによる頂上決戦を鑑賞しないか?」みたいなお題目とともにイベントが開催されたなら、誰も怒らないでしょ? そのプレイヤーたちに、観客を楽しませた謝礼として、いくばくかの出演料が払われても、とくに反感は買わないと思うんですよ。

 ようするに、すべてのゲームの大会を「e-Sports」と名付けられたムーブメントの中に入れて、ガチな実力勝負だぜ! というフォーマットに乗せてしまおうとするから問題が起きちゃう、ってことなんです。

 だから、日本におけるゲーム大会というのは、以下の図のような形に収束させればいいんですよ。

 あらゆるゲームの大会がある。

 スポーツ的な公平さのないゲームだろうが、ぜんぶOK。あらゆるゲームの上級者たちのプレイを鑑賞して、みんなで楽しむわけです。

 そんな様々な大会の中に、ガチなゲーマーさんたちによる、あたかもスポーツのように実力を競い合う「e-Sports」と呼ばれる大会もあるよ。——という形ですね。日本のゲーム産業が目指すべき、ゲーム大会(を軸にしたイベントビジネス)は、こういったものになるべきなんじゃないかなぁ。

 第一回目から書いてきましたが、テレビゲームとスポーツでは「公平さ」の意味が違うのですから、ゲーム大会全体を"Sports"の名のもとにくくってしまおう——といった方向に進むのは、あまり得策じゃないと、わたしは思っているのです。




 さて。

 最後に、ちょっとだけ余談です。

 海外では、e-Sportsが大人気になり、巨大ビジネスになったにもかかわらず、日本は完全に遅れをとってしまった——といった声を、ときおり耳にすることがありまして、わたし、すごく不愉快に思っています。

 遅れてなんかないですってば。

 4回にわたって書いてきたとおり、それぞれの国が違う歴史的経緯をたどったことにより、違うゲーム文化・ゲーマー文化が育まれただけのことです。これを「進んでいる・遅れている」というモノサシで測るのは、とてつもなく良くないことだと、わたしは思います。




 というか、遅れているかどうか、という基準で見るなら、むしろ逆じゃないかなぁ。ゲームを楽しむ人たちの多様性とか、ゲームの楽しみ方の幅広さという側面から見るならば、明らかに「日本のほうが進んでいる」んですよ。

 日本では、サービス業的な公平さを持ち込んだゲームが1990年頃に登場し、誰もが自分のペースに合わせて楽しめるゲームが大ヒットしたことにより、大人たちが、ごく自然にゲームを楽しむ機運が動き出しました。

 でも、こんなムーブメントが起きたのは、たぶん日本だけなんですよ。全世界的には、大人が自分のペースで、気軽にゲームを楽しんでもいいんだ——という風潮になりはじめたのは、たぶんWiiの登場あたりからです。だいたい10年前のことであり、そのタイミングは、日本よりも10~15年ほど遅いんですね。




 この時期のズレが、どんな違いを生み出したかといいますと。 

 たとえば海外では、いまなお政治家が「ゲームは害悪である」みたいなことを口にしたりするわけです。「ゲームは犯罪を呼ぶ。もっと規制が必要だ」な声が、当たり前のように出てきます。

 日本は、そんな時代はとっくに卒業しています。大人がゲームユーザーになってから長い時間がたってますから、ゲームは老若男女が楽しむ一般的な娯楽だよね——という共通理解が生まれていて、そういった「いわれのないゲーム害悪論」は、15年ほど前の「ゲーム脳」といった言葉を最後に、ほぼ消えたんですよ。政治家がゲームの悪口を言うことも、ほぼなくなりました。

 つまり海外って、かつての日本がそうだったように、ちょくちょく出てくるゲーム害悪論と戦わなくちゃいけない時代が、いまなお続いている、ってことなんですよね。大変だなぁ。

 だからこそ、まだまだゲームの社会的地位を上げる必要があって、だからこそゲーム大会を「スポーツ」であると名乗り、オリンピックを目指すことを宣言し、健全な娯楽であることをアピールしなくちゃならない、という側面があるのかもしれません。




 うん。この「時期のズレ」の話に関しては、もっといろいろと面白いこと書けるんだけど、さすがに長くなってしまうので、やめておきましょう。

 というわけで、4回にわたる長文を読んでいただき、感謝です。これに関連したネタを、今後も補足的に書くかもしれませんが、ここで、いったん完結とさせていただきます。

(2018/03/25)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?