野安の電子遊戯工房 ~「ゲンロン8」を巡る事実誤認の指摘と、それに対する対応について~


 なんとも残念な結果です。

 「ゲンロン8 ゲームの時代」という書籍内の、ゲームの歴史について数十ページにわたって語られている記事には、あまりにも事実誤認が多く、各方面からの激しい指摘が飛び、大きな話題を呼んでしまったことをご記憶の方も多いでしょう。

 でもって、電ファミニコユーザーさんが一肌脱いで、60ページほどの記事内にある、200箇所を越える問題点の指摘を著者の方々に提示したのですが、それに対する書籍サイドからの返答がこちらになるわけです。

『ゲンロン8』共同討議へのご指摘に対する返答

 うん。ここまで真摯じゃない返答は、めったに見られるものじゃありません。昭和の時代の役所のようだ。

 かくして、この騒動は、各方面にダメージだけを残し、結果としてみんなが損をしてしまうという最悪の方向に着地することになりそうです。なんとも残念な結末だなぁ。




 この騒動で、もっともダメージを受けるのは、アカデミズムのみなさんなんじゃないかなぁ。

 ここ10年くらい、テレビゲームを学術的に研究する、という機運が芽生え始めています。書店に行ってみると、ゲームを分析・研究して書籍が、けっこうたくさんあることに気付くはずです。攻略本などのコーナーではなく、PC関連のコーナーなどにあったりします。

 テレビゲームを学術の対象にすることは、日本以外(アメリカなど)では積極的に行われていて、それを追いかけるようにして、日本でもそんな研究をする機運が存在するのですね。一般のゲームファンの多くが、そろそろ気付き始めるかなぁ、といったタイミングだったかもしれません。

 そんな中、今回の「ゲンロン8」騒動は、この機運に水を差しまくるんだろうな、と思うんですよ。

 言論界でも知名度のある人物が作った、ゲームを語る書籍が、わずか60ページほどの記事の中に200を超える問題点を指摘され、ゲームの専門家たち、そしてゲームファンたちから壮絶なバッシングを受けてしまい、その道の専門家からは多数の間違いを指摘されたというのに、「すみませんでしたっっっ」「これから精進しますっっっ」的な低姿勢をとることなく、なぜか木で鼻をくくったような返答しちゃってるというのは、すごーくよくないですよ。誰も得をしないぞそれ。

 当人たちが信頼を失うのは勝手だけど、こうなると学術界・言論界のゲームに対する知見なんざ、その程度の低レベルのものなんだなぁ――と、一般ゲームファンに印象付けてしまう結末にしかならないわけで、ほんと誰も得をしないですよ。

 地道に、そして真摯にテレビゲームを研究・分析されている方もたくさんいらっしゃるのに、そういう人たちに光が当たるタイミングが、これで数年ほど遅れることになるかもしれません。酷い話だなぁ。




 以前にも書いたんだけど、今回の件の最大の問題点は、「ゲンロン8」の執筆陣のみなさんに、"テレビゲームを語る"ということに対する覚悟が足りなかったことなんですよ。

 わたし、30年以上にわたってテレビゲームに関わって生計を立ててきましたが、「ゲームの歴史を語る」なんてことは、恐ろしくて手が出せない分野です。とうてい無理です。

 正直に言いますが、わたし、現在のテレビゲームの状況について、全体の5%くらいしか把握できません。これは謙遜でもなんでもなく、膨大な数のソフトが生み出され、それを楽しんでいる全世界で2億人とも言われるユーザーたちがいて、それらのユーザーは年齢・性別・国籍・地域・文化・宗教がバラバラで、それぞれどのようにゲームを楽しんでいるかなんてことは把握しようがないんです。5%くらいしか把握できない――という言葉に対しても、「思いあがってんじゃねえ」と怒鳴られてもしょうがないかな、と思っているくらいです。

 こと日本のゲームシーンだけに限定しても、2000~3000万人のユーザーがいると推定されますし、その全体像は把握しようがないんですよ。今現在のゲームシーンに対する知識ですらそんな有様なのに、10年20年30年……と、それを歴史として並べて語るなんてこと、恐ろしくて手を出しようがないのです。

 だから、ゲームの歴史を語るというのは、おいそれと手を出せない分野になってるんですよ。生半可な覚悟でやっちゃいけない行為なんですね。




 テレビゲームの歴史を語ることが可能だった時代もありました。20年くらい前までの歴史なら、どうにかなると思います。 

 ファミコンとかスーパーファミコンの時代までは、ソフトの数が限定されていたので、ゲームシーンの全体像は、多くの人が把握していました。「この4つのタイトルをひとまとめにして、ひとつのムーブメントとして語る」とか「このタイトルの歴史的価値はここにある」とか、それぞれのソフトをゲームの歴史の中に位置づけつつ語るといった文章を、ゲーム雑誌などで読んだ記憶がある方もいらっしゃるでしょう。

 しかし、ソフト数が増えていくにつれて、こういったアプローチで文章を書くことは困難になりました。わたしの感覚としては、プレイステーション2の登場前後あたりから、誰ひとりとしてゲームの全体像を把握しきれなくなったんじゃないか、といった印象を持っています。1日は24時間しかないのに、ソフトの数だけはどんどん増えてしまい、すべての話題作をプレイして、体験として把握することが不可能になったのです。

 テレビゲームとは何か? そのムーブメントを世間に伝えるにはどうすればいいか? といつたことを真剣に考えていた人ならば、どこかのタイミングで、「うわ。ゲームの全体像をとらえるのは、もう無理だわ」といった絶望感にとらわれたことがあると思います。ほんと無理なんですもん。やってみればわかります。




 このため、テレビゲームの歴史を系統立てて語るタイプの論述が世の中に登場することは、ほぼなくなったんです。

 これは、きわめて独特な状況だといっていい。

 たとえば文芸の世界では、「〇〇論」みたいなタイトルの本が、たくさん出版されています。わたしは推理小説(ミステリ)が好きなので、ミステリの歴史を語りつつ、それぞれの作品の価値を語るような本を、楽しく読んだりしています。文芸評論家の方だけでなく、ごく普通の読書好きの方が書いている本も、たくさんあるんですよね。

 なぜ、これほど多くの「ミステリ論」の本が存在できるのかというと、小説というメディアは、3~4時間あれば読破できるからです。わたし自身、「これは最低限、読んでおけ」と言われるような古典的な推理小説を300~400冊くらいは読んでます。こんなの、たいした分量じゃありません。1冊3~4時間で読めるのですから、1000~1500時間くらいしか費やしていません。1日に4時間を読書に充てれば、わずか1年で達成できる程度のことなんですね。ふつうに生活しながら達成可能です。

 「ミステリ論」と銘打つレベルで本を執筆するなら、1000冊くらいは読まないといけないかもしれませんが、それでも3000~4000時間あれば足りますから、必要な知識を得るには3年もあれば十分です。

 もちろん、必要な知識を得たからと言って、それで優れた論述ができるかどうかは別問題ですし、もちろん小説を読む以外のことから多くの知識を得る必要があるのでしょうが、それでも最低限の知識を得るというレベルに到達するのに、3000~4000時間しか必要なく、ふつうに生活しながら達成できるハードルではあるのです。だからこそ、文芸の世界では、たくさんの「〇〇論」な本が存在できるのですね。




 だけど、ゲームは違うんですよ。

 昨今の、AAAクラス(トリプルエークラス、と読みます)と呼ばれる大作ソフトともなると、1000時間プレイしても、まだ製作者がゲーム内に仕込んでいた仕掛けに気付き、新鮮な驚きを感じたりすることもあるほどです。そんな大ボリュームになっている。

 これは、ゲームがプレイヤーによって違う体験をするよう設計されているメディアであり、プレイヤーの実力が上がるにつれて違う楽しさが表出するよう作られているからこそ起きる現象でもあります。プレイして実力が上がるにつれて、また新しい面白さが感じられるように作られている。だから1000時間を越えても、まだ新鮮な感動とともにゲームに没頭する人が出てくるんです。

 このようなレベルのソフトが、ぼこぼこと登場しているのが現在のゲームの現状です。文芸の世界ならば3000~4000時間を費やせばひととおりの基礎知識は得られるのに対し、テレビゲームの世界では、そのていどの時間を費やしても、数本のソフトの全体像を把握することしかできない、という恐ろしい現実があるんです。

 昨今、テレビゲームはスポーツの一種だと分類されることも多くなりましたが、これは言いえて妙なのかもしれません。ひとつのスポーツを、たかだか数十時間くらい体験しただけで、「このスポーツは、このようなところに価値のある存在であり、その歴史的な価値は~」なんて大仰に語ったら大馬鹿野郎じゃないですか。その程度の知識で大仰なことは語っちゃいけません。そんなことしたら、そのスポーツを何十年にもわたって親しんでいるような猛者たちから、「こいつ、なに言ってんだ?」と蔑まれてもしょうがないですよ。

 「ゲンロン8」に対する、ゲームファンたちからの蔑みの視線は、これと同じなんですよね。

 たぶん、文芸の世界とか、映画とかのコンテンツの世界とか、あるいはアートの世界とか、「最低限の多識を得るだけなら、数1000時間もかければ到達できる」というメディアについて語るかのような覚悟で、テレビゲームの世界に乗り込んできてしまったのでしょう。だから、これほどバッシングを受けることになったのですよ。

 それは、ちょっと覚悟が甘すぎですよね。

 テレビゲームは、全世界で2億人とも言われるゲームユーザーたちを相手にするビジネスです。しかもそこは年齢・性別・国籍・地域・文化・宗教がバラバラな市場です。そういった多種多様なプレイヤーの誰もが楽しめるよう、あらゆることを想定し、誰もが楽しめるゲームに仕上げるため頑張っているゲーム開発者の方々の努力を、あまりに低く見積もりすぎなんだと思いますよ。




 とはいえ。

 個人的なことを言うと、学術系・言論系の方が、テレビゲームの歴史を語ることについては、応援したいと思っています。

 ゲームに仕事として関わっている者が、そんなこと恐ろしくて手が出せない領域になっているからこそ、その恐ろしさを知らない門外漢の人が蛮勇とともに切り込んでくることを、わたしは応援したいのです。

 ぶっちゃけ、間違ったことを書いてしまってもいいんですよ。あらゆる作品は、受け取った側がどのような感想を抱こうが自由であるという大原則もありますし、そもそもテレビゲームは、プレイする人によって違う体験をするメディアであるという特性を持っていますから、「わたしは、こう感じた」と個人的な意見を述べることはOKなんですね。そのことについて、なんの問題もない。

 もちろん、テレビゲームの世界には、ひとつのソフトを1000時間プレイしているような猛者が山ほどいるので、そういった人からはボコボコに間違いを指摘されることになりますよ。でも、そのときは「ごめんなさいっっ」「これから精進しますっっっ」と素直に頭を下げればいいじゃないですか。そうやって叩かれながら、その論考をアップデートしていけばいい。これを繰り返していけば、いずれ素晴らしい論考が生まれるはずです。

 だからこそ、今回の「ゲンロン8」の件は、ほんと残念だなぁと思うんですよ。

 せっかく、仕事としてゲームに携わっているような専門家から、これほど膨大な指摘を浴びたのに、なんで真摯に対応しないんだろ? それ、あまりにもったいないでしょう。ほんと、誰も得をしないですよそれ。

(2018/10/02)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?