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ガジェヴのスクリャービン、とホロヴィッツの最後の来日公演


まもなく来日するアレクサンダー・ガジェヴの今回のリサイタルでは、すべての公演でスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」を、東京ではエチュード7曲を演奏する。
私にとってスクリャービンはなんといってもホロヴィッツ!音楽業界にはいるきっかけになったのがホロヴィッツ最後の来日となった1986年初夏の昭和女子大学人見記念講堂での演奏会だった。

吉田秀和氏がひび割れた骨董品と評した1983年の来日公演には行けなかったが、大学3年だった私は「今回こそは」と招聘元の梶本音楽事務所に電話をして、幸運にも電話がつながり、チケットを入手することができた。
クライスレリアーナは少し崩壊していたように思うが、その断片たるや宝石のよう。スカルラッティのソナタ、シューベルト/リストのウィーンの夜会、リストのペトラルカのソネット、そしてとりわけスクリャービンのエチュードには魔法をかけられたような恍惚感を覚えた。後ろの方の席だったが、ホロヴィッツの生音はピアニッシモでもよーく響きわたる魔術的な力をもっていて、私はぽかーんと「なんだかすごいことが起きている!」と気持ちが高揚して、あっという間の2時間だった。

あぁ、こんなにも幸せを感じることができるなんて!こうやってコンサートを通して人々に最高に幸せな時間を与えられる「音楽事務所」(その頃は音楽マネジメントなんて言葉もなかった)ってどんなとこだろうという興味と、私をホロヴィッツに出会わせてくれた梶本音楽事務所へのお礼?何かお手伝いができればと思い、「アルバイトしたいのですが」と電話をした。

ちょうどその頃、ソプラノ歌手のキャスリーン・バトルがニッカウィスキーのテレビCMで「オンブラ・マイ・フ」を歌い大ヒットして、その名が音楽ファン以外にも知れ渡っていた。そのキャスリーン・バトルが来日することになり、問い合わせの電話が朝から晩までひっきりなしだから、とにかくその電話をとって来日情報を案内してほしいといわれ、ただそのためだけに私はアルバイトで雇われた。

銀座8丁目にあるオフィスに通いはじめ、本当に朝から晩まで鳴りやまない黒電話を取っては、お客様にチラシを送るための住所を書きとった。世間知らずの私は「品川区高輪」を「品川区高縄」と書いて怒られたり、物を大切にする(節約!)社風だったのでチラシは一枚たりとも捨ててはいけないといわれ、少し破れたチラシを「どうしたらよいでしょう」と隣の席の社員に聞くと、「捨ててはいけない、これはここに飾ってお客様にご案内する時に見るように」といって、破れたチラシを電話の横にセロテープで貼り付けてくれた。

こうして私は卒業後にそのまま梶本音楽事務所に入社し、30年間素晴らしいアーティストと仕事をさせていただく機会に恵まれた。入社前のもうひとつの思い出は、私にとってのミューズ!アルゲリッチの演奏会のチケットはその頃から本当に入手するのが難しくて、梶本に何度も電話をしてやっとつながったと思ったら売り切れ。がーんとなっていたら、社員の方が「ここでは売り切れだけど、いまCN21プレイガイドに電話したら5枚残っていますよ!」と案内をしてくれ、なんて素晴らしい会社だと思った。そういう精神を忘れずにお客様に接しなければと、いま特に思う。

なんだか昔話ばかりになってしまったが、その頃のホロヴィッツの演奏に触れたくなり、YouTubeを検索してみたら、なんと1986年6月28日のリサイタルがアップされている!私が聴いたプロとは違うプロだけど、まさに同じ来日での演奏。聴きたいけど、聴いてしまうと、心に焼きつけかれた、私の人生を変えたともいえる出来事が、なんだか重みのないものになってしまいそうで、まだYouTubeのスタートボタンを押せないでいる。

さて前置きが長くなってしまったが、なぜ私がホロヴィッツのスクリャービンのことを思い出したかというと、ガジェヴのリサイタルのチケットがまだ売り切れていない。彼のスクリャービンをもっとたくさんの人に聴いてもらいたいから、彼のあふれるほどのスクリャービン愛を紹介したくて「最初に出会ったスクリャービンの録音って何?」ってきいたら、ガジェヴからさっき答えがかえってきた。

スクリャービンの音楽に出会ったのは、家にあったアシュケナージのソナタ全集のCDのおかげなんだ。スクリャービンの作品を片っぱしからきいて、特にソナタ第9番「黒ミサ」に惚れ込んだ。
その後、ホロヴィッツの録音によるスクリャービンの小品のCDを聴いて、衝撃を受けた。もう何時間も聴き続けたよ。僕にとってはまさにオブセッション! 過去への愛、メランコリックな感情、そして未来へのビジョンが入り混じっている! こんなにいろんな要素がつまったスクリャービンの音楽は、今日に至るまで僕にインスピレーションを与え続けている。
アレクサンダー・ガジェヴ


偉大なるスクリャービン!ガジェヴが愛してやまないスクリャービンを、ぜひひとりでも多くの方に聴いていただけたら、嬉しいです。

公演情報:

<私が聴いたホロヴィッツの1986年のリサイタル・プログラム>
スカルラッティ: 3つのソナタ
                              ロ短調 L.33
                              ホ長調 L.23
                              ホ長調 L.224
シューマン:   クライスレリアーナ
スクリャービン: 2つの練習曲 
         嬰ハ短調 op.2-1
                             嬰二短調 op.8-12
シューベルト:  即興曲 変ロ長調 op.142-3
シューベルト/リスト:ウィーンの夜会 第6番
リスト:                  ペトラルカのソネット 第104番
ショパン:              2つのマズルカ
                    嬰ハ短調 op.30-4
                                ヘ短調 op.7-3
ショパン:               英雄ポロネーズ




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