見出し画像

ワイセンベルクの思い出



和喫茶でアイス抹茶ティーを注文した瞬間にアレクシス・ワイセンベルクのことを思い出した。
確か1990年頃のこと。当時、大阪のザ・シンフォニーホールの隣にはホテルプラザがあって、シンフォニーホールで演奏するアーティストはたいていそのホテルに滞在していた。ワイセンベルクのツアーに同行していた私は、マエストロに「ラウンジでお茶を飲もう」と誘われて行くと、マエストロは「ここのアイス抹茶ティーは本当に美味しいんだよ」と満面の笑みをうかべ、私にも同じものを注文してくれた。

私は大学を卒業してすぐに梶本音楽事務所に入社したが、比較的自由な気風で、入りたての頃から巨匠演奏家のアテンドをさせてもらった。当時英語もよく話せなかったので、いつもドキドキしながらアーティストに同行していた。その頃のたわいもない記憶がふとした時によみがえる。

ワイセンベルクはとにかくダンディで素敵だった。ルイ・ヴィトンの重いスーツケースをいくつも携えての来日で、実用性より自身のスタイルを大切にしていた。とにかく映画俳優のように恰好よくて、カルロスというテロリストの名前をつけた愛犬のことをよく話していた。仕草のひとつひとつが絵のようにきまっていた。

瀬戸田ベル・カントホールでは瀬戸田町長が迎えてくださり、美味しい日本酒をいただいた。美しい海、のどかな瀬戸内海の空気を満喫されていたのが印象に残っている。

ただ演奏が始まると、もう晩年だったからか、メモリースリップや、テクニックの危ういところがかなりある。私は同行するアーティストに感情移入してしまうタイプなので、あぁ、どうかうまくいきますようにとコンサートでは毎回、祈るような気持ちでバックステージで聴いていた。

昔よく聴いた「ラフマニノフのピアノ・ソナタ1番&2番」

そして「バッハ/ハイドン/シューマン」(このジャケットの大きな黒い犬がテロリストの名をもつ愛犬か?!)のアルバムをひさしぶりに聴いてみる。テンポも速くキレッキレなのだけど深い抒情に満ちた見事な演奏。やっぱりマエストロはカッコいい!
https://open.spotify.com/album/0bH07mJUokVNW2BzJ1sOIr?si=AB0G4p8ITZ-elWFx30R6lQ

こんなに完璧な演奏をしていたのだから、最後の来日でメモリースリップが(それも一度だけではなく)起きた時はどんな気持ちだったのだろうと思う。でも同行している若い娘っ子には、公演後もつらそうな表情はまったくみせなかった。自身の心の葛藤は外には出したくなかったのだろう。

どんなアーティストでもステージでのプレッシャーはきっと想像を絶するもの。ツアーの合間に、ホテルプラザのアイス抹茶ティーを楽しむマエストロの嬉しそうな表情を思い出しては、日本のように美味しいものにあふれた国でアーティストを迎えることができることを幸せに感じる。

アイス抹茶ティーのほのかな甘さとほろ苦さは、その頃の記憶を思い出すには十分なほど繊細な味わいで、マエストロ・ワイセンベルクの最高のエレガンスにふさわしい飲み物だと思った。

あの時、あの場所でアイス抹茶ティーをマエストロとご一緒しなければ、いまこうして和喫茶のメニューからこの飲み物を選ぶこともなかったのではないかと思う。

アレクシス・ワイセンベルクと当時の瀬戸田町長

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?