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サントリーホールでイーヴォ・ポゴレリッチを聴く。

前職で1991年から2018年までポゴレリッチの担当マネージャーをさせていただいていた。27年間、彼の音楽の移り変わりを近くでみてきて、他のアーティストよりもずっと劇的な変化を遂げているので、どんなに音楽が奇抜でも、無条件の愛で受け入れる土台が私にはできている。今日もどんな演奏になるのだろう、バックステージでなくてホールの中で聴くことができて幸せだな、と思いながらサントリーホールに向かった。

最初のショパン:前奏曲 Op.45 は意外に早いテンポでさらりと。(最近の私はこの曲は100%ガジェヴなので、塗りかわったらどうしようかと思ったけど、それは大丈夫だった。)シューマンの交響的練習曲は、無条件の愛といえども、ポゴレリッチの驚くべき(ちょっとやり過ぎ)強烈な打鍵に圧倒された時代があったのでちょっと心配したが、どちらかというとオイゼビウスが勝るような演奏。そして何よりも後半のシベリウスとシューベルトに圧倒された。シベリウスの悲しきワルツは、奈良のお寺でのNHK収録の時は骸骨と踊っているようなワルツだと思ったけど、今日のワルツはその時よりもさらに、ずっとずっと悲しい。本当に悲しい。こんなに悲しい音楽は、それだけの悲しさを体験した人でないとできないのかと思いながら聴いていたけど、その宇宙レベルの悲しさと絶対的な美があいまって、その響きの美しさとともに、生涯忘れられないであろう演奏となった。

そしてシューベルトの楽興の時。寂寥感に満ちたとても孤独なシューベルト。孤独なのだけど、どこか人類愛に満ちた、心の奥に訴えてくる音楽だった。あまりに孤独だと、もう僕の世界にはいってこないで、といわれてるみたいだけど、今日のポゴレリッチは少しだけ、僕の世界に入ってきてもいいんだよ、という演奏だった。

ポゴレリッチの音楽は万人受けする音楽ではないので、今日の演奏を受け入れられなかった人もいると思う。でも音楽ってそんなものだと思う。

今日のポゴレリッチは、奏者が2000人のお客さんに対して弾くのではなく、奏者と聴衆ひとりひとりの2000通りのプライベートな空間を作り上げた、そんな世界だった。

2025年1月21日読売日本交響楽団とショパンの2番を弾くらしい。自分の中のショパン演奏とはもしかしたら違うショパンかもしれないけど、ポゴレリッチのショパンはたとえ異形であったとしても、極上の異形。この時代に生きているのだから、その絶対的なピアニズムに生で触れる人が少しでも多くいるといいな、と思う。

いつもは演奏会後はSNSでみんなどんな感想をいっているのかしら、とチェックするのだけど、今日はとてもそんな気持ちになれない。人がなんて言おうとかまわない。ポゴレリッチと私と音楽で結ばれている、それだけで十分。そんな思いにさせてくれる演奏会だった。


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