他人との相対ではなく、自分との相対で人生を送る
社会という他人の価値観への執着
院試の休憩もかねてつらつらと。
最近、他人との相対というものに触れる、ないしは脳が認識する回数が増えた社会になってしまったと思うのです。
他人がどういう道を歩んだか、どうやって成功を手にしたか。どうするが『正解』なのか、という執着が蔓延っているのではないでしょうか。
これは仕方ない流れだと思います。スマホが普及したことによって、いわゆる社会的に成功した人たちばかりが取り上げられ、人間は彼らについて少なからずの関心を持つような仕組みになっているわけです。
副次的なのか分かりませんが、特に若者の間での流行りとして、『効率化』『結果を出したい』という心理も、他人との相対を強要する原因になるのではないかと思います。
SNSやネット記事なんかに影響されて、『〇〇するからには、〇〇でなければならない』『年収〇〇ないとダメ』『〇〇はブラックなので人生終わり』など、他人の価値観がいずれ自分の価値観に刷り込まれるわけですね。
で、失敗してはいけない、という心理が助長されて、とにかく成功に向けた効率、結果にこだわることになります。
こういった先に一体何があるのか、というのを真剣に考えた方が良い気がします。
寄り道しまくって自分の思うがままにやってみる人生と、効率・社会的な成功に執着する人生。後者にどれだけの価値があるのか、自分に問うてみるべきなのではないでしょうか。
他人との相対
他人の価値観への執着があると、そこには必ず他人との比較、相対という思考が発生します。
でこれに対する反例っぽく見えるのが、『〇〇(人物)みたいになりたい!』と言ってスポーツ選手になったりした人たちです。
しかし自分が思うのは、こういう人はもともとその物事に適性があり、いわゆる天職だったのではないか。〇〇はあくまで『誘発』の役割をしたにすぎず、結局本質的には自分の人生を全うしただけ、という理論ですね。
50過ぎてからピアノを始めて、超絶技巧の曲をフル&暗譜で披露した漁師の方がおられます。彼はとあるピアニストに憧れて、とおっしゃいましたが、それもおそらくきっかけにすぎず、もともとピアノに対する適正はあって、それが発現するのが遅かっただけだ、と思うのです。奥様もピアノの先生らしいですし。
言いたいことは、他人の価値観というのを、自分の領域に侵入させるかよく注意した方が良いということです。
その価値観に心躍るようなら誘発要因として迎え入れるべきだし、そうでなければ一考の余地ありというわけです。
自分との相対
相対という思考に於いて、大事なのは専ら『自分との相対』だと思います。自分と比較するのは基本的に良いと思います。よっぽどネガティブなものなら別ですが。
今の自分を基準にして、そこからの舵を取るのも自分。他人の島を目指すのではなく、自分の心が指す方向へ向かうわけです。