ダイイング・アイ

 久しぶりに京都へ。うちあわせをしてとんぼ返り。雨。1時間半、カフェで打ち合わせをして、イカリスーパーで甘いものをどかんと仕入れる。バスの中で『ダイイング・アイ』をぐいぐい読み進める。古書店で手に入れた。読み始めてすぐにNetflixの新着にドラマが上がってきているのに気がついて、読み終えたところまでのドラマを見て、また本を読んで。帰ったらすぐドラマを見たいので、うすぐらいバスのなかの明るいポイントに紙面を当てながら読んだ。そして帰宅、ドラマを最後まで見た。

 28歳の春馬くん。バーテンダー、記憶喪失、金と愛欲。東野圭吾のミステリーとしては異色のオカルトな内容。物語の発端となる自動車事故の凄惨なシーンが何度も繰り返し流れるのがしんどいとか、共演者がどうとか、いろいろそのようなことは置いておいて、何といってもこのドラマの春馬くんがとても美しく撮られていることに注目したい。

 さまざまな顔の角度、しなやかに鍛えられた美しい肢体。このドラマでは笑顔の春馬くんはなし。なんとなく夜の世界に入って、特に野望というほどのものもなく、もともとぼんやりとした人生で、局所的な記憶喪失となり、自分自身がさらに捉え所がないことになってしまっている青年。

 濡れ場春馬、全裸で鎖に繋がれた足枷春馬。頭部を鈍器で殴られ春馬。倒錯の世界の入り口の瀬戸際、ちょっと足を踏み入れてしまい、さすがにいくらぼうっと生きているとしても、これはちょっとヤバいと、現実世界に踏みとどまろうとする。昼間の彼はいつも日の光が眩しそう。

 最終話の最後、拘置所での横顔が本当に美しい。

 「田舎に帰るのもいいわね、あなたには夜の世界は合わない、正直すぎる」というようなことを勤務先のバーのママに言われる。ついつい、夜の世界を「芸能界」と読み替えてもその先は虚しい。

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 春馬くんの急逝から10ヶ月がすぎた。

 春馬くんは可哀想じゃない、春馬くんは俳優として生き切った、そんなふうに考え、ファンは春馬くんの仕事を何度も味わい、その度に新たな発見をし、春馬くんのことばを反芻し、その度にその意味を深め、春馬くんが望んだように、春馬くんが封じ込められた作品と何度でも、いつでも、いつまでも出会うことができることをよろこび、いつまでも春馬くんを忘れないでいることが、残された私たちにできることだと深い悲しみを転嫁することができるくらいの時間がたった。

 一方で、なにか置き去りにした感情を感じているのは私だけではないだろう。うまいことばが見つからない。幸福な命として生まれいでて、祝福され、抱きしめられ、手をつなぎ、見守られてきた大事な命だった。私たちはしっかりとお互いを育て、いのちを支え合うという人生の目標をもっている。だれかを責めているのではない。ただ、この無力さに打ちひしがれていて、あってはならないことなのだということを忘れないでいようとする気持ちがはたらいているのだろう。

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