ミニマリストになりきれない
視覚的にミニマルになった私の7.5帖は、多目的教室みたいだったが、それでいて無目的だった。
私の心はもぬけの殻になった。
捨てれば入ってくると思っていたからだ。
大学生の私に教えてやりたい。
人混みを擦れ合うようにして過ぎた日々の先に生まれる、それ以上の価値について。
身軽になった私は、フローリングにつかず離れずの、レースのカーテンみたいな足取りで街を歩いた。
幽霊みたいな顔をして、夢想の向こう側を目指す旅に出た。
(捨てても、捨てただけじゃないか……)
綿毛であるべきはずの身が、那覇空港に降り立った瞬間の前腕が即座に汗ばむように、まとわりついた湿気に辟易した。
27歳、私は結婚し、31歳で家を買った。一姫二太郎に恵まれて、パパと呼ばれる日々にも慣れたのだろう。
憧れのワンルーム遊牧生活というカードは、書庫の中で、埃をかぶった広辞苑のしおりとして使われることになった。
パタン。
さようなら、ミニマル。それは、空が青いこととは違うのだ。
世界を斜に構えて眺めながら、それでいて映画館のポップコーンみたいに溢れるモノに囲まれた。
今私は、ひとつひとつのモノを眺める。
どれもが、物語を持ってそこにある。
物は静かにに語りかけてくる。
そして「気に入る」という言葉を思い出す。
気は人生、そこは私のワンルーム。
そこに招き入れたものには、私の気が宿る。
結婚式の1か月前から契約し、準備室として住み始めたアパートのリビングは、かつてダイニングと和室の間にあった壁を取り払って、10畳ほどのLDKを造ってあった。
肌色のフローリングにリフォームされて、つるんとした上に、素っ気なくちゃぶ台が居た。
ちゃぶ台は妻の友人にもらった。
今、新居の机から見る「チャブ」は、角ばった4本の足で立つ平たい巨大昆虫か、あるいは何かの台座のようにも見える。
とにかくいつも何かを支えている。
結婚生活が5年ほど過ぎ、捨てては買いを繰り返してきたマイホームの物たち。
切り捨てようとばかりする大人と、捨てないでと泣く子どもの共存する、ワンルーム。
物を見るたびに記憶をたどっていると、豊かさは物がない暮らしではなく、物の先にあるのだと気づく。
最小限の物で、最大限の成果を。そして精神的な豊かさを。
草食動物にも比喩される私の瞳では、ミニマルな暮らしは向いていないのかもしれない。
その代わり、モノに囲まれた私はいつも、
目にした瞬間、モノ語りの記憶に囲まれる。
この家に始めてやってきた日のこと。
妻がいない晩、子どもたちと囲んだちゃぶ台と、水っぽいサラダの味。
立て掛けてある姿見の向こうに、独身だった妻のアパートの茶色いデザインクロス。
奥行き、奥行き、奥行き。
どこまでも広がる世界とは物理空間のことではない。
私たちの精神のワンルームなのだ。
多くを受け入れ、記憶に住むにそぐわないものだけを、静かに追い返す。
それが、私にとってのミニマルだった。
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