聖書をちょっと知って、チー付与47話をちゃんと読む
はじめに
「チート付与魔術師は気ままなセカンドライフを謳歌する。~俺は武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?~」の47話が凄かった。本当に凄かった。
あんな展開を予想してたわけではないのに、悪の終焉として見たいものが全てあった…としか思えなかった。凄かった。凄かったんだよ。
下手に語ると感動が薄まるから多くの感情を書き留められないんだけど、間違いなく過去一番の最高打点だった。
過去のnoteにもいくつか書いたが、私はチー付与が大好きで、半グレをずっと応援していたので、47話をできる限り読み取りたいと思っている。
ただ、作中で語られる「宗教」、「神」、「神学」などへの理解が浅く…いや、浅いどころか何も知らない。どうしても全てを読み取ることができない。
そこで、これを機会に少しずつ宗教に触れて、47話の解読をすることにした。
図書館で本を読み、必要であれば関連書籍を購入し、宗教学の土台を作り、宗教観を学び、形成し……を、しっかりやるつもりだったが、これは少なく見ても1年ぐらいかかりそうだ。
ので、少し読み漁った程度の現段階で、47話を一旦解釈して受け入れるため、まだ知識が浅い今の状態でnoteを書いてみる。
あくまで47話を聖書に頼りながら読み解いてみようという試みであり、チー付与における神の考察ではない。(ちなみにチー付与における神の考察をするのなら読むべきは恐らく聖書ではなく原作。)
繰り返すが、宗教の知識は私にはないため、宗教的に正しい解釈ができてるのかも分からない。
そもそも聖書を頼るのが正解なのかも分からない。
何も分からない。
そういう感じで0から始めてみようと思う。
(長いので、本題である47話解釈にすぐ飛べるようにした。①を飛ばして②から読んでも全く問題ない。)
①なぜ聖書か
世界で一番売れてる本は聖書らしい。
なら聖書から触れるのが道理だろう。
あとメタフィクション的な話になるが、チー付与は(東京やグアム近いや神戸屋が出てくるが一応は)西洋系の中世ファンタジーなので(多分)、東洋系の宗教よりはこっちの方が合うかなと思った。
聖書は歴史が積もりに積もっており数が膨大なので全てを読み切ることは到底できず、この本を参考にして要所だけをかいつまんだ。
『知のカタログ 聖書の名句』
(面白くて読みやすかったのでおすすめです。)
そもそも聖書とは
本当にざっくり説明すると
・色んな宗教(ユダヤ教、キリスト教等)の聖典
・旧約聖書と新約聖書がある
・すごく昔に書かれてて、色んな人が色んな書き方をしている(なんとかの福音書)ので量が膨大
とのこと。
神様や人間が代わる代わる出てくるからよく分からなくなることもあるけど、フィクションで見たことある!聞いたことある!の連発で、オタクの義務教育だった。
これが47話とどう関係あるのか、先ほど紹介した本を引用元として一部を抜粋しながら見ていく。
【旧約聖書】
有名なアダムとイブなどの話が出てくる。
唯一神ヤハウェとイスラエルの民の話が主だけど、それは47話にはあまり関係が無さそうなので割愛。内容自体は進撃の巨人の後半読んでるみたいで楽しかった。
(本筋とは少し逸れるが、神が積極的に試練を与えたり恵みを与えるのは旧約なので、唯一神ヤハウェはミノルが言う「神」に近いのかもしれない。「強化儀礼」もミノルっぽい。これは別の機会に改めて考えてみようと思う。)
知識の木
アダムとイヴ(エバ)が知識の木になっていたリンゴを食べて楽園を追放された、という有名な話だ。
様々なフィクションのテーマにもなっている。
47話では、タケが襲撃前にリンゴのような果実を食べていた。
仮にこの果実が、タケの単なる自由奔放さを表す以上のものであり、宗教的なモチーフを意図されたものであると仮定した場合の解釈をしてみようと思う。
聖書には「食べると死ぬから食べちゃダメだよ」と書かれている。
これは今すぐ死んでしまうみたいな話ではなく、元々は不死であったのに食べることで死ぬ未来が訪れてしまう、という話らしい。
聖書では死を罪の対価だと考えている。
なので、ここで言う「死んでしまう」も罪の対価だと解釈できるだろう。
ではこの解釈を踏まえて、47話を考える。
タケは、この果実を食べてからは襲撃も死も、果たすことができなくなった。
「それからも」というのは果実を食べ、体調を崩した日以降だ。
何人にも殺されかけたんだろう。それでもタケは死ななかった。
果実を得て(聖書的に言えば罪を犯して)死の未来を失った。
罪の対価として死の未来が確約された聖書とは正反対だ。
なぜ正反対か。
タケは今まで背景や胸中が一切語られないキャラクターだったが、今回で友達が餓死するような環境で生きてきたことが明らかになった。
仲間であるコージには「一番最初に死ぬだろうな!」と笑いながら言われて、ミノルにも「そんなことやってると長生きできねえぞう」と言われていた。
ソウタに未来の話をする時には「絶対死なない状況で生きててもつまんねーだろ!」と言っていた。
なんなら一回死んでいる。
友達、仲間、現在、未来、どこを見てもタケの近くには死があった。
そんな彼が死を失った。
「国王軍相手に死ねばあいつらと同じ場所に行けるか⁉」と楽しそうに笑うタケが、殺されないどころか首を吊っても自死すらできない。
タケにとっての不死は罰に相応しいものだと言える。
この一連の流れを聖書の教え通りに読解すれば、果実を食べたことは罪で、不死が罪の対価なんだと解釈できる。
実際に、タケ自身も人生が終わらないことは「俺への罰」だとはっきりと口にした。
では次に、果実を食べたことで罪の対価を得た、という聖書的なこの解釈がチー付与の読み方として正しいのか検証してみよう。
検証
タケは最後から2ページ目で「最初に1人で地方の領主を襲った時から(ずっと不死である)」と言っている。
しかし、地方の領主を襲ったのは果実を食べる前である。
時系列で言えば、
①皆の死を悟る
②地方の領主(ホドギャ宅)を襲い、無事成功
③皆と居たから楽しかったと気づく
④国王軍襲撃直前に果実を食べる
⑤襲撃失敗、体調不良
⑥死ぬことができなくなる(自殺失敗)
果実を食べる前から死ぬことができないなら、タケの罪は果実とは関係ないところにある。
そして、果実には宗教的な意味合いはなかったということになり、④の果実はタケが盗み食いだか拾い食いだかをしてお腹を壊しただけとなる。
時系列と描写の正しさだけを優先すればこう読むしかないのだが、私個人としては関係ある/なしのどちらも断言できない、に着地した。
神学を語っている以上、これが分かりやすい聖書的演出だという解釈をこじつけだとは言えない。それはそれとして、あくまで演出に過ぎずここに意味を見出すのは難しい、という心持ちだ。他の解釈を知ればもっと正しい意味を付けられるのかもしれない。それは後日に期待しよう。
ちなみに、少し話は逸れるが、聖書では果実がリンゴとは限らないらしい。
「カインのしるし」
楽園を追放されたアダムとイヴはカインとアベルという子を授かる。カインは初めての赤ちゃんであり、初めての人殺しらしい。
それもカインは弟であるアベルを殺し、なんとか誤魔化そうとしたが神(「主」)に秒でバレた。
主はカインが復讐によって殺されるだろうということを危惧し、カインを殺されないようにした。カインの原因と状況は少し異なるが、「誰にも殺させない」という結果はタケに似ている。
罪を犯したカインも、タケのように自由奔放だったのか見ていこう。
この2つはカインの言葉だ。
タケとはだいぶ精神性が違うように見える。
ただ、タケも出会った人に殺されようとしていた。道端で会った貴婦人、それ以前に会っていたであろう半グレに復讐心を持つ者。
もちろんタケを助けた男のような人もいるが、顔も名前も知らない相手に復讐されるだけのことをしてきたのが半グレなので、カインと同じく彼らも罪を背負なければならない。し、それについて自覚的であるべきだと思う。倫理的な面では。
では、半グレは実際に罪を背負っていただろうか。タケは罪を背負っているんだろうか。
それについての答えも私なりに出したので、後ほど書いてみようと思う。
【新約聖書】
新約聖書は、ざっくり言うとイエスが死んだり生き返ったりする。有名な宗教画は新約聖書をテーマにしたものが多いかもしれない。
旧約聖書が歴史をなぞっていることが多いのに対して、新約聖書では“教え”が前面的に出てくる。
その中でも裁きについて取り上げてみる。
「人を裁くな、自分も裁かれないために」
この後には「自分にも欠点があるのだから、人の欠点は指摘しない方がいい」「まず自分に目を向けろ」といった文章が続く。
他人を裁くことを聖書は否定しているので、復讐や断罪を人に向けることはタブーだろう。
だが、その後に続く文章も含めて、自身の裁かれるべきものについては自覚的でなければならない。
キリスト教では「私たちの罪はキリスト様が背負ってくださってる」という教えがあるらしい。
何にせよ、罪に自覚的であることは前提となる。
恐らくこれは全ての宗教で語られているんだろう。
何を以て罪をするかは宗教ごとに異なるが、「罪なんて気にしなくて良いですよ〜何も悪くないですよ〜」という態度の宗教は恐らく無い。と、思う。いやどこかにはあるかもしれない。
とにかく、「自分を振り返り、自分を見つめて罪悪を自覚しましょう、救いは神がもたらします」というキリスト教の構造が宗教全体でもよく見られており、どの宗教においても敬虔な信徒というのはある程度自省ができる人間だろう。
だが、47話を読んでみるとタケの振り返りには「仲間に会いたいのにもうどうやっても会えない」で終止しており、罪を認めることも祈ることもない。それでいてタケは神を信じていると言う。
私たちがイメージとして抱いている敬虔な信徒とはかなりかけ離れているが、彼は本当に神を信じているのか、罪の意識はあるのかを考えていこう。
②47話を読み解く
タケは本当に神の存在を信じているのか
あくまで私の解釈だが、彼は神を信じている、と読むべきだと思う。
まずタケは、半分が「その人に合わせた苦難を与えるだけらしいんだよぉ」と言ったのを思い出しながら神学に触れ始めた。
最初は「神なんてマジでいんのか!?」という疑いで読み始めたような顔をしているが(怒りながらページ開いてるし何ならあくびもしている)、徐々に半分の言葉を理解していった。
それから自主的に多くの本に目を通した上で、今の神学的に正しいと言われる解釈に辿り着いたんだろう。
タケの「神を信じている」は、「人間の人生を操るだけの存在がいると信じている」ということだ。
これは半分が言っていた「神は人を助けずただ苦難を与えるだけ」に近い。(等しいと言ってもいいかもしれない)
タケは救いを与える神ではなく、苦難を与える神の存在を信仰している。
この信仰に罪の意識は不要である。
神は存在していると思うことが信仰だ。
今のタケには信仰があるから、宝を奪って逃げず自分を助けた男のように、冒頭で貴婦人を手当てして助けた。
あの自分勝手で傍若無人な暴れ馬が大人しく神を信仰していることは中々信じ難いが、あの男が見ず知らずの貴婦人を助けるなんて信仰以外の理由がない。
タケに罪の意識はあるのか
結論から言うと、そんなものはない、が私の解釈だ。
まず、聖書では「神は人間の人生を操るだけ」と取れるような記述は私が読んだ範囲では見当たらなかったため、やはりここで語られている神学とはチー付与オリジナルの何かしらの宗教だと思う。
(他の入門的な神学書にも目を通したがそれらしきものは見つからなかった)
分かりやすいように、チー付与のこの宗教を『宗教』と表記する。
貴婦人もタケもある程度神学を嗜んでいる描写があり、強い復讐心を向けて/向けられていながら、罪の話が出てこない。
『宗教』では罪が語られないのか、二人の感情が先行しているため罪だのなんだのの話をしている場合ではないのか分からないが、とにかく47話では罪について語られない。
そして丸々1話使って贖罪を描いているにも関わらず、当の本人であるタケから罪悪感が一切感じられない。罰はあるのに。
死ねないこと罰としてを受け入れていながら、タケの中にあるのは仲間への未練のみだ。
何ならこの期に及んで「記憶の中で会うことも許されねぇらしい…」と言っている。
タケは貴婦人の復讐心は見透かしているんだろうが、そんな相手にこんなことをボヤくほど、仲間に会えないことが彼にとっては重大だ。
タケの今の一番は仲間だ。ずっと仲間への未練で生きていたのに、その仲間との時間を否定するような「罪の自覚」はできるだろうか。
「仲間と一緒に人殺したの良くなかったな」「仲間と一緒に国王に盾ついたの罪だな」と思えるだろうか。
元々、悪事をやっているという自覚は半グレ全員にあった。
悪い行為だと自覚はしても、やってはいけないことをやってしまったという罪の意識は無いだろう。
悪事は捕まるからやってはいけないことだと知っているだけだ。
なら、捕まらなければそれはやってもいいことなのだ。
タケにとっては神学も学びも仲間に会うための手段であり、仲間に会えない理由が信仰だった。
死んで仲間に会えない、死ねないから忘れていって記憶の中でも仲間に会えない、「苦難を与える神は存在する」という信仰で仲間に会えない理由を付けるしか無い。
そんなタケが、どうやって仲間との時間を断罪することができる…。
また、作中の『宗教』を神学的に解釈すると、死ねないことはタケ自身への罰である。
タケが犯した罪への罰ではない。
半分は「その人に合わせた苦難を与える」と言っていたので、罰を与えるのは“罪を含めたその人”であり、間接的に罪への罰である、という解釈もできるだろう。
もちろんその解釈も否定できない。
ただ、私は、それなら餓死したタケの友達は罪人だったのかと疑問に思う。
神は罪を罰してるのではなく、やはり人そのものを見ていると考えた方が通るのではないか。
タケの友達が手を合わせて神に祈りながら飢え死にしたことは『宗教』を考えるのに外してはならない要素だ。半分の言葉もこの話に対して出たわけだし、タケの宗教観にも影響を与えている。
まだ幼い友達が神に祈りながら死んだから神は信じないと言っていた男が、神は苦難を与えるだけだと仲間に教わり、今では人間の人生を操る神はいるという信仰を持っている。
この信仰の流れと、今のタケ自身を見た時に、彼が罪について考えるとは私には思えなかった。
なので、タケに罪の意識はないと結論付ける。
③聖書とは関係ないタケの解釈
なぜタケは自死を選んだか
生きるガソリンがなくなったから。
ガソリン(怒り)がなくなったから首を吊った。
タケはムシャクシャしたら暴れて発散を繰り返す男だったが、何度やっても国王軍への襲撃ができず、発散が封じられた。
何度も繰り返すうちに怒りがどうせダメだって諦めに変わったから、その正常じゃないルートで怒りが消えてしまって、彼が生きるためのガソリンもなくなった。常に暴れ回って動いてないと落ち着かないから、どうしようもない停滞が続けば終わらせたくなる。
だから自死を選んだ。
だが、自死は失敗した。タケは怒りながら神について書かれた本を手に取る。
この4コマ目を見て分かる通り、タケの生きるガソリンである怒りが復活している。
だから死ぬこと以外に目を向けて、意欲的に本を読むことができた。この頃だけはまだガソリンが復活する余地はあった。
今はもう無い。
だから「終わらせてくれよ」とはっきり口にした。
なぜ今までモノローグが無かったのか
普段から何も考えてなかったし、思ったことも全部口に出してたから。
なぜ今まで仲間がいたから楽しいと気づかなかったのか
普段から何も考えてなかったから。
なぜ肌の色が変わったか
ファッションで肌を焼いていたから。
冒険者は科学に頼れないので普通なら日焼けサロンは行けないはずだが、まぁ平気で焼肉に行ったりしてるから気にせず日サロも行ってたんだと思う。冒険がない非番の時とかに。いやゼルージュ王国に日サロあるか?
何にせよ、今まではファッションで焼いてたのに、そういうチャラチャラしたものは早いうちに手放してしまったんだと思う。
回想の仲間がやけに多くないか
半グレはギルド離脱して半分に着いて行った人の総称なので、厳密には国王軍に楯突いた7人だけではない。
半分は37話で本物の人間の話をしていた。
裏切らず、受けた恩を返そうとしている、自身を除く6人だけを本物の人間だと半分は認識していると思う。半分にとっては本物の人間であるそいつらだけが仲間だと読み取れるだろう。
だけど、タケにとっては冒険時代から国王軍との戦いまで同じだと言っていて、過去に一緒にツルんでバカなことをやった人間を全員仲間だと認識している。
他の半グレメンバー、例えばミノルやコージや半分やエンディやソウタやコゲも仲間に想いを馳せるシーンはあったが、誰一人としてこんな人数思い浮かべてない。タケのは明らかに多い。
ミノルは39話で「夢も目標も誓いもある」「同じ目標だけが集団を強くするんだよ」と言っていた。
国王の首を取るという目標を共に掲げたのはこの7人だけ(ワダチーは無かったこととする)なので、もちろん特別なはずだ。
多分タケ以外は皆そう思っている。
タケは普段から何も考えていなかったので、そういう意識は特になかったし、仲間が死んで一人残されても7人を特別視はしていなかった。
彼は仲間みーーーーんなが好き!と言えば聞こえはいいが、さすがに対国王軍の前と後じゃ話が変わるだろう。
本当に普段から何も考えてなかったんだ。
信じられないけど、そんな男が今や仲間への未練だけで生きている。
罪の自覚はないのに、信仰はあり、罰を受けるために生きている。
早く終わらせてあげてほしいが、まだ終わらないでほしい。あともう少しだけ生きていてほしい。
それで死後は地獄に堕ちてほしい。
「タケが最初じゃねえのかよぉ!?なに最後に来てんだよお〜!」ってあの頃と変わらないテンションでツルんでほしい。
もうその気持ちしかない。
おわり
おまけ
死んで生き返って、次は死なない、人ならざる存在になるってイエス・キリストやんと思った。
あんまそういうこと気軽に言うべきじゃ無いよとも思った。
おまけおわり
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