右と言われて皆右向けば、あるいは死
好みはあるし、それによって人それぞれの物事の見方はあるとは思う。
けど、それが絶対にこうだ。と言い切れる事なんてないと思う。
どんなに決まりきったルールでも常識でも、穴を探せばいくらでもあるし、それを埋める方法だってある。
基準に則ったものの側面だけを見て、判断し決めつける事に何の意味があるのか?
大多数の意見は社会を形成していく上で必要だと思う。けど、やっぱりそこで全員が正義だ悪だとはっきり決めつけるのはどうなんだろう?
考えるのを辞めてはいけない。人である限り。
自分に哲学を教えてくれた人が言ったこの言葉はあまりに腑に落ちすぎて、指導を仰ぐ事も出来なくなった今ではある種呪いのようにも思う。
たった1つの意見や思い込みで物事を捉える事は人として死ぬような事だと言われた気がした。
なぜなら、そう言ったその人は2、3ヶ月会わないうちに世の中のどこにもいなくなってしまった。
自分のものの考え方が普通なのか、その人に私はいつか聞こうと思っていた。一般社会でそれなりにちゃんと生きていける、もしくは社会不適合者だと早々に答えを貰いたかった。
でも訃報を聞いて、言われた事を思い出して自分が死ぬまで終わらない宿題を出された気がした。
決めつけるのも決めつけられるのも、正直楽だ。
大多数の他人やその道に精通した人を納得させられれば、よっぽどの事がなければ覆らないからその上に胡座を掻いていられる。
でも、それは時としてしちゃいけない事だと思った。けど、それが絶対的に悪だという事も言わない。
良い悪いの基礎は出来てる。だから皆ある程度の基準の上にいる。
でも、その下にいる人や、ある点において偶々落ち度があった人を、ただ批判して見下すのは何か可能性を生む行為なのか。
悪だと正義だと自分の中でそれは決めてもいい。けど、どちらを選んだとしても逆の可能性を考える。グレーゾーンの思考は絶やしちゃいけない。
ifや逆の可能性を考えることは意味がない事だろうか?いつ何が起こるかわからない世界で生きてるのに。
一つの結論に至るのに、一つの視点では足りないっていう研究者のセオリーは、全ての人に適応されて然るべきじゃないだろうか。
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