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歌舞伎「文七元結」感想かきとめ

ミッドランドスクエアで上映されているシネマで歌舞伎にて「人情噺文七元結」を鑑賞してきた。
感想を熱が冷めやらぬうちに拙筆ながら書き出したい。

1.映像作品としての見所

開幕、長屋に長兵衛が帰宅するシーンから始まるが舞台には照明が全く灯っていない。
役者が登場しても顔や姿さえ見えない。
ガタガタ動く音と帰ってきた長兵衛の小言が暗闇の中、手探りで明かりを灯すまでかなりの長い尺を使われていた。
そうか、貧乏だったらそりゃ夜中に明かりをつけてあるのはおかしいよな。と納得した。
初めは、灯りがついていないことに驚いたが、なるほど長兵衛は服もすべて質屋に流して着るものがなくて妻の着物を剥ぎ取ってしまうくらいなのだから灯りを無駄につけているのはおかしい。
真っ暗なのが自然なことなんだと腑に落ちた。
また、そこを映像化する際に暗闇から始まるのが異彩で理屈も通っているのだからにくい演出だ。

そして、お久の描き方がとても良かった。
角海老屋に身売りしにきたお久を囲み、女将と花魁達がお久の話を聞いて健気さに涙を流す。
きらびやかな花魁と対象的なお久の泣き晴らしたすっぴんの顔とつぎはぎとホコリだらけの着物。
くつろいで座っているが背筋の伸びた美しい花魁の隣で恐縮し背中を丸め小さくなっているお久の不憫な姿がより強調される。
角海老屋の女将が50両を長兵衛へ渡すときに、女将から長兵衛へ直接渡すのではなく、お久を呼び。
「お前の手から、おとっつぁんに渡しておやんなさい。」
と手渡すのが良かった。
「このお金で、お借りしている所へみんなお返ししてね。おかっつぁんと仲良くしてね。私がいないと癪の看病ができないから…。」
そう言いお久はあかぎれで真っ赤なボロボロの手で差し出すのだ。
私、ここで泣きました。名シーンだった。

2.あえて描かれなかった所

歌舞伎版では落語の際にはあるシーンであえて描かれなかったところもあった。
お金を貰った文七が清水屋に帰って、無事に使いの役目を果たしてきましたと嘘ついたら忘れ物の50両がもう届いていた。さぁ大変だお金の主を探そう。
という下りは全部カットでした。
そしてお金をあげてしまった長兵衛が家に帰って、事情を聞いた妻から責められ一晩中喧嘩するところも無し。

朝になって喧嘩しつくした後、埒が明かないので大家を呼んできてどっちが正しいか判断してもらおうというシーンで後半は始まる。
すったもんだしてるうちに、訪ねてきた清水屋の主人と文七が上記の事情を語る。

3.文七元結の道理問題

文七元結は人情溢れるいい話で人気だけれども、すごく非道な話だ。
親父が博打に酒に遊び尽くして作った借金を娘が吉原に沈むことでお金を借り、一年後に返さなきゃ娘は店に出されるという約束で借りた大金を見ず知らずの自殺志願者の若者にあげてしまうのだ。
人の命には変えられない、とは言ってもそれで娘が売られたら体を売らなきゃいけないし病気をもらって死んじゃうかもしれないのだ。
他人の命と娘の身を天秤にかけることと同じだ。
だが、まだそこまでは許せる。
許せないのは、清水屋が借りた50両を返しに来たときに一度あげたものは江戸っ子は引っ込めねぇとつっかえす所だ。

長兵衛ふざけんなよ。お前が体売って稼いでこいよ。

と、思う人は多いのではないか。
今回の歌舞伎版では、そこはさらっとあまり悶着しないで流していたので舞台用に変えたところだと思います。
昔は、娘は困窮したときに売られたり奉公に出したりは当たり前だったので今との感覚の違いが古典を演じるときの悩みどころなのでしょう。
この倫理観の違いを現代でどう表現するかが今、たくさんの落語家さんが苦心している中、歌舞伎版で観る「文七元結」は新鮮でとても良かったです。

※記憶を頼りに書きなぐっているので作中のセリフは正確ではありません。

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