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科学世紀を哲学史から読み解く


このnoteでは、秘封倶楽部の舞台として知られる「科学世紀」を、哲学史を片手に読み解いていく。筆者が今までTwitterで書き散らしてきた、要領を得ない考察の数々を、ここにまとめてみる。各々に厳密な考証は行っていないため、眉唾程度のものとして読んでいたたげれば幸いである。
なお、相対性精神学を哲学史や思想史から読み解く企ては、すでに試みているので、そちらを参照されたい。


夢を現実に変える

夢と現実は違う。だから夢を現実に変えようと努力出来る。〔…〕夢は現実に変わるもの。夢の世界を現実に変えるのよ!

(『夢違科学世紀』)

アリストテレス

アリストテレス(前384-322)は、物事の形態の推移を「現実態」と「可能態」という言葉を用いて表現している。現実にそうなっている状態のものを現実態といい、それが可能なものを可能態という。そこから考えれば、今ある現実態は、未来の現実態をうみだす可能態となっている。

酒で例えるなら、現実的に酒であるものは現実態である。しかし、酒は腐ると酢になるが(アルコールに酢酸菌が入ることで酢酸発酵がおき、アルコールが酢酸、すなわち「酢」になる)、これは可能的に酢であるものが可能態であるということだろう。酒はそれ自体現実態でありながらも、一方で酢となる可能性を含み持つ可能態でもあるというわけだ。

なるほど、であれば現実は現実それ自体の現実態であり、夢は未来の現実の可能態という関係になる。現実と夢がそれぞれ現実態と可能態に相当することになる。

ボードリヤール

ジャン・ボードリヤール(1929-2007)は「シミュラークル」と「シミュレーション」という言葉を用いて、現代という時代において錯綜しつつある夢(虚構)と現実の関係を示唆している。シミュラークルとは、「ないものをあるように見せかける」という意味を持つ。シミュラークル自体はシミュレーションから来た言葉だ。

例を挙げてみよう。ボードリヤールはシミュラークルに三つの種類があると述べている。①かつての空想小説のような、現実にはありえない架空の世界を思い浮かべる「自然のシミュラークル」、②SF作品に見られる、現存する科学技術がこのまま発展するとどうなるかを予測する「生産的シミュラークル」、そして③コンピュータの時代によって可能になったシミュラークルがそれぞれである。

ボードリヤールが注目するのは第三のシミュラークルである。「今年の冬の流行りはこれ!」というキャッチコピーを見たことがある人は多いと思われるが、まだ「今年の冬」は訪れていない──だから誰も着ておらず「流行って」すらいないのに、なぜ「今年の冬の流行り」がわかるのだろう。それは、さまざまなデータに基づいて「まだ存在しないもの」をシミュレーションしたからにほかならない。

このように、「シミュレーションによるシミュラークル」の時代においては、現実には存在しない「虚構」のほうがありありとリアリティを持ち、実際の「現実」のほうはそれに後追いするかたちで実現するという状況になる。「今年の冬の流行り」のように、現実のほうが虚構の力を借りて出来上がっていくのだから、現実と虚構のあいだの区別が徐々に失われていくことになる。

スラヴォイ・ジジェクは9.11の同時多発テロについてこういっている。あの事件は「日常という幻想」が「テロという現実」に破られたのではなく、われわれの現実がハリウッド的スペクトラムのイメージによって粉砕されたと考えるべきなのだ、と。

倒壊するビルを見て「まるでハリウッド映画のようにリアルだ」といういささか奇妙な感想を抱く習慣は、われわれの現実が凡庸なB級映画のイメージに取って代わられていることを意味している。いまやわれわれの時代では、リアリティとは何かがわからなくなっているというわけだ。

サナトリウム

人間は自然を創造し、全てを管理したつもりでいた。管理外の物の存在を否定するようになるのも時間の問題だった。〔…〕管理外の物を恐れる社会の性質により、メリーは信州のサナトリウムで療養という名の隔離治療をさせられていた。

(『伊弉諾物質』)

フーコー

ミシェル・フーコー(1926-1984)は「狂気」や「精神疾患」という主題をめぐって、時代ごとに「何が正しいとされているか」「何が正常/異常とされているか」が、社会的あるいは学問的にどのように正当化されているか、その歴史を検討した。

近代以前、もちろん「狂人」は差別的な扱いを受けることもあったが、少なくとも「病人」とみなされることはなかった。これが一七世紀になると、社会の中に放置するのではなく、施療院なるものを作って「閉じ込め」を行うようになる。ただし、この場合も、狂人は病人や犯罪者と同じ括りにされていた。つまり、道徳的な排除対象ではあったもののまだ医学的な配慮対象ではなかった。それが、一八世紀を経て一九世紀になると、本格的に医学の対象になる。つまり、その症状を具体的に検討し、治療したり、統御したりする対象になるというのだ。「狂っている」というのが、「道徳的に変」から「医学的に変」になる。そして、「医学的に変だから治すべき対象になるというわけだ。

なるほど啓蒙主義の時代に現れたロック、モンテスキュー、ルソー、ホッブズといった人物は「神から人間の理性へ」というスローガンを掲げていた。彼らは共通して神への信頼から脱却して人間の理性に帰依することを望んでいた。神への信仰から、人間の理性へ、という主張は、一見無条件に望ましいことのように見えて、実際は「非理性的」な狂人に対して排他的な姿勢をとることにほかならなかったというわけだ。

このような具合に、歴史的な経緯を辿ることで、フーコーは、何が「狂気」とみなされてきたのかはその時代ごとの「知」の枠組みによって規定されており、時代が変わればこの枠組みも変わること、裏返せば、現在当たり前だと思われている「正常」と「異常」の区別もこうした歴史的変遷の上のことにすぎないことを示したのだ。

ウリ&ガタリ

フーコーとは別に、ある一つの思想潮流を紹介してみたい。それは反精神医学である。

ジャン・ウリ(1924-2014)やフェリックス・ガタリ(1930-1992)によって一九五三年に創立されたラボルト精神病院は、通常の精神病院とはいささか異なる理念を以て運営された。端的にいえば、この病院の試みは、精神病は本質的に医学の外部にかかわる、という観点を原理にしている。精神医療は、決してただ医学によって確立された知識と技術を、病院で患者に提供するという活動に限定されてはならない。精神の病が発生することは、この社会の集団、家族、関係のあり方に、ひいては政治にも資本主義にも密接にかかわっている。病院もまた医者と患者、その他の成員がいっしょに形成するひとつの社会である以上、病院の外部の社会と病院の内部の社会を、どのように関係づけるかが重要的な問題になる。病院がそのような発想を持たず、閉じた場所である限り、病院自体も、外部の社会を模倣して、病を発生させ、悪化させる場所になりかねない。

患者が病院の外部でなぜ病み始めたのかと問うことと、病院という場所をどのように構成するか考えること、この二つは同時進行しなければならない。精神の病は、この社会の中の日常生活を構成する心理的、政治的、経済的、文化的要素の軋轢と密接に関係する。その意味で、精神の病とは、必ずそのような多様な要素のあいだの葛藤の表現であり、それに抵抗したり、それに抵抗したり、それから逃げて生きのびようとしたりする過程でもある。精神病院とは、その意味で、高度に社会学的、政治学的な場なのである。

だから精神病院を単に医学的な知識に基づく臨床や治療の場とみなすことは、あたりまえのようでも大きな問題をはらんでいる。精神病院をどのような関係の場として構成するか、ということは、逆に、正常とみなされる社会の中のあらゆる葛藤や抑圧を別のまなざしで見るための機会になるはずである。結局それは、この社会のあり方そのものを変える試みと切り離せない。

科学世紀における精神医学の実践状況は、反精神医学の観点からはあまりにも近代主義的だとして批判されるだろう。それは医者が患者を治療する場であり、患者を従属させる場であり、政治的社会的文脈を不当にも削いだ場であるのだ。そこでは「精神」がベルトコンベアの上に乗せられ、医師という権威によって診察され、病院という制度によって管理されるということになる。

科学と非科学

ラトゥール

ブルーノ・ラトゥール(1947-2022)によれば、近代の特徴は「人間と自然」をはじめ、「文化と自然」「物質と精神」というようにさまざまな概念区分が「純化」され厳密になり、さまざまな二元論が作られると同時に、両者のあいだで「翻訳」「媒介」「ハイブリッド化」が無制限に生じる点にあるとされる。ラトゥールによれば、純化がハイブリッドを可能にする。つまり、ハイブリッドを禁じれば禁じるほど、両者の交配は盛んになる。

ラトゥールはこの状況を「近代のパラドックス」と呼んでいる。なるほど近代という時代から繰り返されてきたような「人間と自然」「文化と自然」「物質と精神」はそれぞれ扱うものとしては別々の対象でありながらも、両者のハイブリッド化も同様に強まるという逆説的な状況が明るみに出される。

興味深いのは、これが「科学と非科学」の名においても同様であるという事実である。科学世紀では科学主義が称揚されながらも、文化や伝統、信仰などといった非科学的なものへの帰依も見られる。科学への純化を強めるほど、科学と非科学を横断する動きも盛んになる。科学世紀は科学への志向を定めるとともに、非科学への志向も含み持つことになるという逆説を運命づけられているということだ。

終焉を迎えた物理学

物理学は事実上終焉を迎えている。既に物理学は、解釈と哲学の時代に突入していた。

(『大空魔術』)

バークリー

ジョージ・バークリー(1685-1753)は、「存在することとは知覚されることである」と述べている。逆にいえば、知覚されるまで存在することはない、ということだ。物の、それ自体としての存在を否定し、私たちに知覚される限りにおいてのみ存在すると説く立場を「観念論」と呼ぶ。

観念論は物質否定論とも呼ばれる。物質それ自体が私たちの知覚と独立して存在することがないということから、私たちの知覚と独立して存在する物質の存在を否定するという意味で、「物質否定」に至るわけだ。

バークリーの観念論・物質否定論は、量子力学における立場の先駆としてしばしば紹介される。なるほど量子力学においては、観測されるまで量子の位置や状態が不明であること、さらにそれが完全にランダムな関係にあることが指摘されており、量子力学においては不確定性原理と呼ばれる。この不確定性原理は人間の「知覚」を契機として物質の運動が明らかになるため、物質それ自体が独立して存在することはあり得ず、したがって人間に知覚されるかたちでしか存在せず、この奇妙な事態が「観測者問題」として提示されている。

その意味で、量子力学による現代物理学はバークリーらの哲学の議論と重複していると考えてもおかしくはない。むしろ、バークリーの観念論を量子力学が裏付けた、という見方もできるかもしれない(だからといってバークリーの哲学説の正当性が現代の哲学において認められた、というようなことはないのだが)

幻想機械

ドゥルーズ&ガタリ

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)とフェリックス・ガタリ(1930-1992)の著作『アンチ・オイディプス』では「機械」という言葉が頻出する。その重要タームとして「欲望機械」、続編の『千のプラトー』には「戦争機械」「抽象機械」、ガタリの単著には『闘争機械』がある。

それでは機械とは何であるのか。ドゥルーズとガタリは、「いたるところに機械がある」といっている。これ以上は、『アンチ・オイディプス』をじかに読んでもらって、雰囲気を感じてもらうほかない。

〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〔…〕〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。

(『アンチ・オイディプス』)

〈それ〉とは、際限のない無意識的な欲望「エス」のことを意味している。ドゥルーズとガタリは、〈それ〉=無意識を機械と呼んでいる。無意識が他のさまざまな「機械」(自然、生命、身体、言語、記号、商品、貨幣、等々)に連結され、たえず何かを生産しているということをいおうとしたのだ。欲望とは、そのような無意識‐機械の現象であり、過程であり、さまざまな身体の地平に、さまざまな連結や切断を作り出していくような働きなのだ。

結びつけるのはいささか強引だが、端に「機械」という言葉が多く登場すること、読み進めていけば、ひょっとしたら「幻想機械」なんてのも出てくるんじゃないか、という淡い期待を込めてここに紹介した。

速度は価値を失った

情報が電子に記録されるようになってから、膨大な情報が瞬時に手に入るようになった。それと同時に原始より絶対的な権力を持っていた、 速度や量は価値を失った。

(『燕石博物誌』)

ヴィリリオ

ポール・ヴィリリオ(1932-2018)は「速度学」なる体系を構想し、「走行体制(ドロモクラシー)」という造語を提案している。ヴィリリオは、とりわけ艦隊や戦闘機など、軍事と産業が一体となって情報・交通・物流を操作する体制ができあがることを批判的に分析する。そこでは、より速く移動できるという「速度」の革命が、モノや情報を速く伝達させるだけでなく、われわれの場所感覚や時間感覚をも変容させることになるという。

例えば、自動車を高速で運転するとき運転手は、すぐ近くではなく、遠方に目線を置き、同時に手元の速度メーター等の計器にも目を配りつつ、向こうから自分のほうにやってくるように見える他の車や障害物をかいひするようにして車を操作する。あたかもビデオゲームをしているときのようなバーチャルの動作が必要となるわけだ。

このような角度から、ヴィリリオは同時代のビデオ映像やデジタル映像の進展などに注目しつつ、事物の世界でなく遠隔的に存在するバーチャル世界をわれわれがどう体験しているのか、そこでわれわれ人間の身体や認識がどのようになっているかについて根源的な考察を提示している。

量から質へ

代わりに絶大な価値を手に入れたのが、質だ。中でも個人しか持たない特殊な情報は、世の質的セレブ達を熱狂させるのだった。

(『燕石博物誌』)

ベンヤミン

ヴァルター・ベンヤミン(1892 -1940)は、一九世紀から二〇世紀にかけて登場した「写真」や「映画」という新たな媒介装置と、それにともなう複製技術の出現がおよぼす影響について、とりわけ「芸術」の凋落という現象を中心的議題として問うている。

ベンヤミンは、「芸術」がどのような道筋を経て現代にいたったかについて、次のように考察している。まず芸術は「礼拝される対象」であったという。それが美術館の成立によって、一定の場所に集められるようになる。興味深いことに、もともとあった場所から美術館に移されることは「芸術の死」ではないかという意見は、フランス革命の際に最初の公共の美術館が成立しようとしていたときに、フランスの批評家たちのあいだではあったようだ。現代人の感覚からすれば、美術館の成立は「芸術の始まり」として迎えられるべきだと感じるだろう。

美術館に集められた作品は「展示される対象」へと移る。しかし、この時点では、「一回限りの体験=アウラ」はまだ残っていたとベンヤミンは言う。それが、複製技術(=写真、映像、録音)の普及によって、芸術作品はいってもどこでも見ることができるようになる。

最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこには〈ひとつ〉だけ脱け落ちているものがある。芸術作品は、一回限り存在するものなのだけれど、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。〔…〕この権威、この伝えられた重みを、アウラという概念に総括して、複製技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである、ということができる。

(『複製技術時代の芸術作品』野村修訳)

「量から質へ」と価値が移行する科学世紀の状況は、まさに失われた、一回限りの体験を取り戻そうとする大衆の志向そのものに由来するといえよう。そのために、富裕層は金を惜しまず「体験」へとつぎ込む。まさにベンヤミンが指摘するように、アウラへの回帰を目指すように。

ボードリヤール

ボードリヤールは、現代消費社会について分析を試みている。ボードリヤールによれば、現代社会の消費行動では、商品それ自体の使用価値を重視した実体消費ではなく、それに付加された記号的な要素を重視した記号消費が全面に出てきている。

コートを買うときも、暖かさなどの性能よりも、それに付加されたブランド名やロゴが重視され、あるいは、広告で見た「印象」をまるごと買っている、といってもいいだろう。暖を取るという即物的な目的よりも、そのブランドに似合った「何々系」というイメージや自分のポジションを示すようなかたちで、コートを買い、着る。

このように、本来の目的とは異なった、象徴的な作用は「記号」と呼ばれるが、現代においてはこの「記号」が世間の中心になっているといえるだろう。

有名な例に、「無印良品」がある。これは堤清二氏が無印良品を着想する際に、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』に触発されたという話だ。ボードリヤールによれば、消費社会においてはブランド物が幅を利かせる。すると、いたるところにブランド商品が溢れ、利用者もくたびれてしまうだろう。そこに「反ブランド」として無印良品を掲げ、見事に利用者の心を掴んだというわけだ。

「量から質へ」の文脈と一致しているかどうかはわからないが、ボードリヤールの示唆は、科学世紀における状況を見事にいい当てているように見える。

資本主義の最終段階

資本主義は、ノアの方舟の如く経済による格差社会を増進させた。それにより何処の国も軒並み出生率が低下したが、これは全て資本主義の最終ステップである『人口調整』段階に入っただけである。

(『大空魔術』)

デリダ

「資本主義の次に来る時代」という想定は、そのまま「資本主義の終焉」という事態を共有している。当然、資本主義の終焉を説いたマルクスを踏まえずにこれについて話すことはできない。

マルクスによれば、資本主義は衰退の一途を辿っており、最終的に崩壊するという。しかし、マルクスへの応答として用意された社会主義や共産主義は、ソ連・東欧の社会主義圏が崩壊し、冷戦が西側の「勝利」に終わったとされてから、マルクス主義の威信は地に落ち、世界中で「マルクス葬送」の行進曲が奏でられている。マルクスは死んだ、マルクス主義は死んだ、いまや政治的には自由民主主義、経済的には資本主義市場経済こそ、人類社会の乗り超え不可能な地平であることが証明された、云々。

もっとも顕著な例は、フランシス・フクヤマである。フクヤマは『歴史の終わり』で、冷戦の結果は、市場経済と自由主義陣営の勝利を示すものだったとしている。なるほど、資本主義は未だ安定して運用されている、自由主義と民主主義は政治に民意を反映する点、独裁主義よりも愚行に走る可能性が低く、最善の政治形態であるといえる。それこそ時代の最終段階であり「歴史の終わり」にほかならない、というわけだ。

ジャック・デリダ(1930-2004)は、こうしたフクヤマの議論に「キリスト教終末論」の論理を見出す。たしかに、キリスト教終末論とはつまるところ天国の到来、メシア(救世主)の到来を待ち続ける姿勢だが、当然それは現実の論理に当てはまるわけがない。フクヤマのいう「歴史の終わり」とは、最終的に資本主義、自由主義、民主主義が勝利者であることを主張するが、それは資本主義という天国、民主主義というメシアを掲げようとする。

デリダはこの態度を「メシアニズム」として批判する。メシアニズムとは、特定のメシアの現前を予想し、歴史の成就としての終焉を予想する。それは例えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教をはじめとする宗教的メシアニズム、ヘーゲル主義、マルクス主義、ポスト‐マルクス主義的な目的論的歴史哲学、党や階級や民族や国家や文明など特定の現前する存在者に歴史の意味を担わせる範例主義的普遍主義、とくに範例主義的ナショナリズムなどである。

目的論的歴史哲学とは、つまるところ「ある目的のために歴史は存在している」という視点のことである。例えば、死後われわれは救済される(あるいは地獄に落ちる)が、歴史はそのための過程に過ぎないと考えることが、目的論的歴史観につながる。あるいは「資本主義/自由主義/民主主義こそ政治形態の完成形だ」「歴史とともにわれわれは進歩している」という考えさえ、目的論的である。ナショナリズムはさらに分かりやすい形で歴史を動機づける。「われわれ〇〇人こそが真の民族であり、〇〇人の歴史だけが真の歴史だ」云々という具合に。

メシアニズムは、未来との関係をつねに特定の規則に従属させ、まったき他者の到来としての歴史、出来事としての歴史の次元を抹消してしまう。メシアニズムに陥っているかぎり、私たちは歴史や時代に向き合うことはできない。

それを踏まえたうえで考えると、科学世紀における「資本主義の最終ステップ」とは、まさにデリダのいうメシアニズムだといえるだろう。それは「歴史とともにわれわれは進歩している」という目的論的歴史哲学にほかならず、これから到来する時代に対して開かれた態度ではない。さらに、資本主義の次の時代という想定自体に、メシアニズムの極地を見出すことすら可能だ。「資本主義の次には真に完成された時代が来る」という目的論的歴史観である。

参考文献

渡名喜庸哲『現代フランス哲学』筑摩書房、二〇二三年。
村田純一『技術の哲学』講談社、二〇二三年。
多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波書店、二〇〇〇年。
冨田恭彦『観念論の教室』筑摩書房、二〇一五年。
宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社、二〇二〇年。
高橋哲哉『デリダ』講談社、二〇一五年。

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