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相対性精神学とはなにか

再録によせて

本稿は『幻想茶房合同2』所収の「相対性精神学とは何か」を再録したものです。頒布からちょうど一年がたった現在、今考えるとひどい内容と稚拙で乱雑な文章ではあるにしても、公開することにしました。この度は少々の細かい訂正を施しながらも、中心的な主張もひどい構成も変わってはいません。眉唾程度に読んでいただければと思います。

二〇二三年九月一一日

はじめに

本稿の本題に入る前に、読者の皆さまに伝えておきたいことがある。一つ目は、私がここで語る諸々の知見についてトーシローだということ。二つ目は、本稿で展開される解釈は全くトンチンカンであること。三つ目は、読者の皆さまの自由な解釈を縛るものではないこと。


Ⅰ 「真実は主観の中にある」とは何か

1 相対性精神学と独我論

蓮子みたいな『客観的に見て明確な真実が存在する』という考え方はいかにも前時代的だわ。真実は主観の中にある。見たことのある景色しか出てこないならば──ここはそういう所なのよ。

(『夢違科学世紀』)

この発言は、『夢違科学世紀』でのメリーによるものだ。「客観的に見て明確な真実が存在する」という主張に対して、「真実は主観の中にある」という相対性精神学の基本テーゼを提示しており、蓮子の言う科学の客観性を非難している。しかし「真実は主観の中にある」とは何を意味しているのか。メリーの言う「主観」とは何かを、哲学における認識論の議論にそって考えてみる。

そんな私の専攻は相対性精神学。蓮子は超統一物理学だったわよね。最近はひもの研究、順調かしら?

(『夢違科学世紀』)

「主観/客観」の図式が哲学史の中で顕著に現れたのは、主に近代哲学の父、ルネ・デカルト(フランスの数学者、哲学者。一五九六〜一六五〇)からだ。デカルトは、「我思う故に我在り」という有名な格言で、「私」の存在の絶対性を論証した。彼はまず、世界を正しく認識するために、何か不変的な物を基点に出発しようと、あらゆる物を疑った(方法的懐疑と呼ばれる)。この世界は神が私に見せた幻かもしれないし、逆に私が勝手に見ている夢かもしれない。私は今机の上にペンがあるのを見ているが、それらが実際にそこにあるとは限らない。また当時も絶対的とみなされてきた数学さえも、過去に誤った例があるので信用できない。こうしてあらゆる物を懐疑したデカルトは、ついに一つの原理にたどり着く。「この世界に疑えるものはたくさんあるが、しかし私が今疑っているという事実は疑うことが出来ない」。これこそ、先述した、かの有名な「我思う故に我在り」(cogito ergo sum)だ。これは、確認するまでもなく明瞭で素朴な論証だろう。真実は主観の中にあるという相対性精神学一般の主張は、このデカルト的なコギト(「我思う故に我在り」における「我」のこと)を彷彿とさせる。
相対性精神学が客観の存在を認めず主観に固執するのであれば、それは「私」以外を認めないというラディカルな思想になる。そして、この「私」以外の実在の確実性を認めない立場を、独我論と呼ぶ。
例えば、「私」以外の全員の人間が実はコンピューターである可能性を憂慮するという話題を耳にしたことはあるだろうか。あるいは、実は世界は五分前に創られたばかりであったり(世界五分前仮説)、私が見たり感じたりしているものはすべて電気信号によって再現されたものであり、実際には電子機器に繋がれた水槽の中に浮く脳であったり(水槽の中の脳)、現代科学の想定する宇宙が発生するよりも、真空中に突如として脳が発生する可能性のほうが高い(ボルツマン脳)といった事態を考えることはでき、それは否定することができない。
これはまさしく独我論的思考と言える(なお、この名言の知名度のおかげでしばしば勘違いされるが、デカルト自身は独我論者ではない)。例えば、デカルトは自身の著作の中でこのように述べている。

〔…〕注意深く考えてみると、覚醒と睡眠とを区別しうる確かなしるしがまったくないことがはっきり知られるので、私はすっかり驚いてしまい、もう少しで、自分は夢を見ているのだ、と信じかねないほどなのである。

(『省察』)

なるほど、今自分の見ているものが夢であるか、現実であるかも定かではないという姿勢は、徹底的な懐疑による堅固な砦であるが、しかし、その懐疑の先に進むことはできないという点で、ナンセンスな主張でもある。
では、相対性精神学は独我論を中心に据えたものなのだろうか。しかし、「真実は主観の中にある」という原作での記述を素朴に受け取ると、我々は顔をしかめざるをえない。なぜならば、相対性精神学はその名が示すとおり学問の一分野であるからだ。一学問の学者が、他者と合意にいたろうとする過程で、他者の意識の存在を認めないとは考えづらい。例えば、相対性精神学の学者たちがシンポジウムで集まり、それぞれが各々の研究成果を発表する。学者が熱心に発表を終えると、聴衆は見向きもせず「はい、そうですか」といい、みなそろって退出する、という奇妙な場面が思い浮かぶ。「主観こそ真実」なのだから、そこには客観性への志向がないというわけである(なお、ここでの「科学」は自然科学と社会科学のことを指し、また哲学は自然科学たちの方法論であるというニュアンスで論を進めている)。
というわけで、「主観こそ真実」とは、その実、諸科学の否定ということになる。となると、相対性精神学が心理学の一種だと思っていた我々にとっては「相対性精神学、何?」という感想しか残らなくなる。相対性精神学が独我論を標榜するとなると、論理的に破綻せざるをえないのだ。
しかしここで、「真実は主観の中にある」が、独我論でないとしたらどうだろう。まだ追求できそうなことはないだろうか。

2 相対性精神学と観念論

相対性精神学は独我論ではない、としてみよう。ここで少し拡張して、相対性精神学にとっての「主観」が、「私」だけでなく、他人の「心」も範疇に入れるとしたら、つまり観念論であれば、どうだろうか。つまり、この世界には「私」だけでなく、他人の「心」も「意識」もある、と。独我論は私の「心」以外なにも実在していない、という主張であった。しかしそれでも、相対性精神学が客観の存在を認めないということには代わりはない。
観念論は、人の意識のみが存在し、その外部の実在を確信しない、という立場だ。つまり、観念論でも独我論同様、客観性というものは認められない。太陽が何度東から登ったところで、明日も太陽が東から登るとは限らない。われわれは太陽が何度か東から登ったのを観測しただけで、それ以上のものではなく、それは単なる「経験」に過ぎない。(なお、同じく「観念論」と呼称されるものにイデア主義という立場があるが、これは全く別物であり、ここでは考えないものとする。)
『夢違科学世紀』のメリーの発言を見るに、やはりメリーは観念論者で、相対性精神学は観念論なのだろうか。しかし、別に相対性精神学が観念論を中心に据えたものであるとすれば解決するかというと、そうでもない。観念論を標榜できるのは、哲学の領域だけだからだ。

4.111
哲学は、自然科学たちのうちのひとつではない。(「哲学」という言葉は、自然科学たちの上にあるものか、下にあるものかを意味しているにちがいない。自然科学たちと並んでいるものを意味しているはずがない。)

(『論理哲学論考』)

ここに引用したルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(オーストリアの哲学者。一八八九─一九五一)の言葉は、哲学と科学の関係について的確な見解を示している。
そして、この見解をもとに考えると、相対性精神学が哲学の一分野であると表明されていない限り、相対性精神学が観念論であるという結論を導くことはできない。
それでももし、哲学の一分野としての相対性精神学を考えることにした場合、例えば、認識論、存在論と並んで、形而上学だとか、現象学、解釈学なる分野がある。これらは哲学の一分野としての学問の名称だが、相対性精神学がこれと並ぶものであるという考えもある。であれば、相対性精神学は哲学の一分野で、観念論の立場を取る、と結論づけることもできる。しかしだからといって、相対性精神学という名称の第一印象について多くの人が考えるのは前述の通り「心理学」であろうし、心理学であれば、それは科学の(本引用が言うところの「自然科学たち」の)一分野となり、観念論はありえない。客観性そのものの是非を論じる哲学を除き、科学が客観性への志向を持つことを考えると、相対性精神学が心理学の一分野であるとして、観念論の形態を取ることはありえない。
少し頭を整理することにしよう。相対性精神学にありえる形態は、今のところ、以下の二つだ。一つ目は相対性精神学が哲学の一分野で観念論であること。二つ目は、相対性精神学は観念論ではなく、心理学の一分野であることだ。

3 相対性精神学の「主観」

一つ目の「相対性精神学は観念論である」という形態として有り得そうな可能性を探ってみたい。「主観/客観」の問題は、近代以降特に重要な哲学のテーマとなってきた。デカルトの楽観的な実在論以後には、ヒュームに代表される懐疑主義、観念論。現象と「物自体」を分け、最終的に純粋自然科学が可能であると結論づけたドイツ観念論の始祖カント。弁証法による最終的な真理への到達を説いたドイツ観念論の完成者ヘーゲル。「主観/客観」図式を排し、観念論からの再出発を図った現象学の創始者フッサール。言語の恣意性と相対性を告発したソシュールと彼を始祖に勃興した構造主義、現代思想。この現代思想、つまり現代の哲学では、結果的に(無論そんな単純な話ではないのだが)観念論的な結論に至っている。
その例として、ソシュールをあげよう。フェルディナン・ド・ソシュール(スイスの言語学者。一八五七〜一九一三)は「言語には差異しか存在しない」という主張をしている。これはどういうことだろうか。
例をあげよう。日本では、蝶と蛾は一般に別物と認識される。一方、フランス語では、蝶と蛾は区別されない。フランス語では蝶と蛾はまとめて「papilon」と呼ばれる。また、逆に、日本人が区別しない「ウサギ」という語を、英語圏の人々は白いウサギ(ノウサギ、hare)、茶色いウサギ(アナウサギ、rabbit)でそれぞれ区別する。この、区別する価値あるものを区別するという性質は、その人が話す言語に限らず、言語活動を行う人間に普遍的に当てはまる性質だ。
そして、この逆も言える。区別する価値がないようなものを区別することはない。床に散らばった無数のくぎを見て、「これがくぎ子で、これがくぎ夫ね」なんて言うことはない。ソシュールが目をつけたのは、この言語活動上の区別(すなわち「差異」)が、対象の形体、質といった事実に基づいた区別ではなく、「区別する価値」を見出したための区別であるという点だ。そして、人間がこの「差異」という恣意的なシステムでしか物事を計れないということは、言語とその指向対象である物事との純粋な関係も存在しない。というわけで、ソシュールが言うには、言語が「区別する価値」から生じる以上、言語活動は全く人間本位的にしか成立しない。その言語活動を通してしか行えない科学は、人間にとって恣意的な産物でしかない。つまり、科学の客観性など全くの虚妄である、ということだ。
そういう意味では、メリーの「蓮子みたいな『客観的に見て明確な真実が存在する』という考え方はいかにも前時代的だわ。」(夢違科学世紀)という発言は、現代思想の観点から言えば、別に格段オリジナルというわけではないように思える(例えば、「科学も数ある文化のうちの一形態に過ぎない」とか「科学が宗教ではないということを否定できない」という主張もこれと同じ)。では、相対性精神学が持つ「常識を変えたインパクト」とは、なんだったのか。

夜の胡蝶が自分か、昼間の人間が自分か──。
今の常識では、両方自分なのよ。

(『夢違科学世紀』)

少なくとも現代において、以上のような考えが幅を利かせることはないし、それが現代における常識だ。では、メリーの言及する科学世紀の常識とは、なにか。いかに現代の常識から科学世紀の常識にシフトしたのか。そのルーツを相対性精神学の登場に求めるのは、自然な流れのように思われる。そう思えば、相対性精神学の主張する「主観」とは、これとは全く別物ではないだろうか。我々の常識でメリーの言う「主観」を計るのは、それこそ大きな誤りだったのではなかろうか。次章では、二つ目の形態「相対性精神学は心理学の一分野である」という前提をもとに、さらなる考察を試みる。

Ⅱ トリフネ・夢・科学世紀

1 トリフネでの事例

この章では主に、『鳥船遺跡』をもとに相対性精神学の相貌について考察を重ねる。秘封クラスタの皆さんはすでにご存知であろうが、ここで『鳥船遺跡』のあらすじについて確認しておこう。
まず、過去に機械トラブルを起こし宇宙の藻屑となった不遇な宇宙ステーション「トリフネ」の話題を、メリーがあげる。トリフネは、実験によりさまざまな動植物を搭載しており、この実験がテラフォーミングという壮大な計画を視野に入れたものだったことも語られる。メリーは、これらの動植物の生態系が未だ存続している可能性について主張する。それは、メリーが夢の中で、生態系が存続した幻想的な光景のトリフネを見たこと。そしてそれがただの夢で終わらない話である根拠として、メリー自身が知らなかった、トリフネ内部における天鳥船神社の存在を、彼女の夢の中で観測したことをあげている。二人がどのように近くの天鳥船神社を中継して「夢の中」でトリフネに移ったかは、ここでは具体的に述べられていない。

蓮子とメリーは地上から38万km離れた衛星トリフネの中にいた、……と言っても勿論夢の中である。

(『鳥船遺跡』)

制御不能となったはずのトリフネの中で、二人はその幻想的な光景に感動する。二人はそこで自然観察をおこない、おしゃべりに耽る。そこに突然、聴いたこともない唸り声が響き渡り、未知の獣が二人の前に姿を表す。動転するメリーと、対照的に冷静に分析する蓮子。トリフネの特異な環境が生み出したであろう合成獣。その獣が二人めがけて襲ってくるところで、二人は目を覚ます。

メリーはこの夢がただの夢でない事を知っている。あの光景は紛れもない、衛星トリフネの真実なのだ。

(『鳥船遺跡』)

突然襲ってきたキマイラを回顧する二人。その満ち満ちた好奇心から「もう一回行こう」と提案する蓮子。そして、もちろんそれに乗り気でないメリー。メリーは蓮子にいやいやながらも乗せられ、再び「夢の中」で衛星トリフネに向かう。
不安定な空間で身軽に舞う蓮子。「これならキメラ相手でも余裕だよ」と余裕を見せる。銃を構える素振りを見せる蓮子に対し、メリーはこれが「私の夢」であることを強調する。

「となると、怪物は鳥船遺跡に実在するのよ。ワクワクするわねぇ」

(『鳥船遺跡』)

他愛もない話をしている中、キマイラが二人を襲ったのはその瞬間だった。
場面は代わり、メリーの怪我を心配した蓮子は病院の前で待つ。メリー曰く負った怪我はただのかすり傷で、ばい菌の心配もない、というところで幕は降りる。
そしてここからが重要なのだが、この物語では結局、「あの光景は紛れもない、衛星トリフネの真実なのだ」と結論付けられている。これはつまり、メリーの「夢」が全くの幻ではなかったことの裏付けであるが、さて、メリーの「夢」とトリフネの関係を次の図2に簡潔に示した。

まず、夢と現の二元論でこの関係を考えてみよう。図中左にいるメリーはトリフネについて夢想している。彼女が考えられることは、トリフネはどんな様相だろうか、今どうなっているのだろうか、といった、自己では完結しない内容である。対して現にある衛星トリフネは、ただトリフネとして実在している。ここにはトリフネとしての真実があり、ここに観測者がいれば、トリフネとはなんであるかを理解したといえる。無論、現のトリフネと接触していないメリーは、衛星トリフネの実態、真実を知るはずがない。なので、メリーの夢のトリフネと、現のトリフネは一致しない。では、メリーと蓮子はなぜそれ(すなわち現のトリフネの真実)を『鳥船遺跡』で知り得たか。この過程でどのように夢と現のトリフネが同期したのか。その答えが天鳥船神社にある。そして、その天鳥船神社が、文字通り夢と現の境界として、この二つをつなぎとめ、メリーの「夢」を現のトリフネと同期しているのだ。しかし、なぜこの天鳥船神社が夢と現をつなぎとめることができるのかという謎が残る。夢と現の間で起こるこの奇妙な因果を、「超越的な因果」と呼ぼう。(そしてこれは、メリーが知らずに「夢」の中で発見した衛星トリフネ内の天鳥船神社らしき鳥居の存在、つまり鳥船遺跡事件のマクガフィンについてもいえる。これがどのようにして得られたのかも、夢と現の同期と同様の問題だ。)この「超越的な因果」は、超越的といったように、その過程が全く超自然的である。天鳥船遺跡が夢と現をどう同期したのかはおよそ科学的手法では明らかにできそうにない(もしくは、あえて明らかにしない)。そして、以上の推察から、相対性精神学は実在論と考えることができる。メリーが観念論者なのであれば、夢と現のトリフネが一致するはずがない。これは、現のトリフネという事実が存在し、なおかつ夢と現のトリフネの一致が見られるということから、前章で指摘した観念論の反対、すなわち実在論という結論になる。だから、前章で提示したような、相対性精神学のシンポジウムで見られそうな事例はない、ということも予想される。つまり冒頭であげた「真実は主観の中にある」とは、真実に対する主観的アプローチであり、科学的手法に対する、この「超越的な因果」による真理の探索を意味していたのではないだろうか。これこそ、つまり夢と現の同期を用いた方法論こそ、相対性精神学の目的ではないだろうか。

2 夢と現

貴方みたいな前時代的な人は、夢と現を正反対な物として考える人が多いけど、もっともっと果てしなく昔の人は、夢と現を区別していなかったと言うわ。

(『夢違科学世紀』)

……この「果てしなく昔の人」とは、一体誰を指すのだろうか。しかし、夢をただの幻としない考えは、「果てしなく昔」からあったと言える。夢に何かしら特別な意味合いを求める動きは、どの時代にもあった。古代人にとって夢は神の声に等しいものであったし、合理主義や科学主義的な伝統でこの夢の神秘さが薄れても、夢占いを始めとした夢の神秘さへの志向は未だ、その様相を保ち続けている。
心理分析に夢の解釈を導入した人物にジークムント・フロイト(オーストリアの精神科医。一八五六─一九三九)がいるが、彼の見解を参照しよう。彼によれば、人間は無意識という無自覚な領域によってほとんどの行動が決定されており、無意識を分析する方法論として夢に注目している。彼によれば、夢は当人の心理状況を表す材料として迎えられるべきなのである。

下って古典時代となっても、まだ原始時代の名残りが明らかにあって、古代ギリシアやローマの人たちは、夢は神々や悪魔たちからの啓示だと考えていた。それどころか彼らは、夢とは人に未来を教えるためのものではないかとさえ考えたのである。

(『夢判断』)

ではその代表例として、ここにまず、かの旧約聖書から、ヨセフの夢の話を持ち出してみよう。

料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。 「わたしも夢を見ていると、編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。いちばん上の籠には、料理役がファラオのために調えたいろいろな料理が入っていましたが、鳥がわたしの頭の上の籠からそれを食べているのです。」 ヨセフは答えた。 「その解き明かしはこうです。三個の籠は三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」 三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。ファラオは給仕役の長を給仕の職に復帰させたので、彼はファラオに杯をささげる役目をするようになったが、料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。

(『旧約聖書』)

この場面は、ヨセフが料理人の予知夢の内容を解き明かすという形で、超自然的な点が認められる。そしてこれはまさしく前述の「超越的な因果」と同様ではないだろうか。
他にも、同じような予知夢の例として、メダルト・ボス(スイスの精神科医。一九〇三~一九九〇)が示した事例を挙げてみたい。

たとえば、ボスはジョセフ・ラニィが彼のかつての弟子であったフランツ・フェルディナント大公の暗殺を予知した夢を報告している。詳細は略するが、ラニィ司教は夢の中で次のような手紙をフェルディナント大公から受けとる。「わたしと妻が今日サラエボで暗殺されることを伝える。あなたが敬けんなる祈りをささげてくださるよう……。」この手紙にはその日付が記され、午前三時十五分と時間も書いてあった。司教は驚いて目覚め、時計をみると、まさに三時十五分だった。そして、その日の午後三時頃に、彼は大公暗殺を報じる電報を受け取ったのであった。

(『無意識の構造』)

ここでも、やはり、ラニィ司教が予知夢という奇跡的な力ともいうべき「超越的な因果」を介して、彼が知らないはずのフェルディナント大公の暗殺を知っている。
この二つの夢の事例に共通する事項、つまり、この「超越的な因果」は、相対性精神学が成立するための条件にほかならない。しかし逆に、この前提が崩れた場合、相対性精神学の体系は一気に瓦解する性質を持っている、とも言えるだろう。
以下の引用は、ジャック・ラカン(フランスの精神科医、哲学者。一九〇一~一九八一)解説の一環によるもので、今回の考察には関係ない事柄だが、興味深い事例のため、ここに引用する。ここで言及されているのは、ジークムント・フロイト(オーストリアの精神科医。一八五六~一九三九)が示した夢の事例だ。(ここではラカンがフロイトを解説しており、そのラカンをジジェクが解説している。)

夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。これが、フロイトが『夢判断』の中で例に挙げている有名な夢から、ラカンが引き出した教訓である。それは、息子の棺を見張っているうちに寝込んでしまった父親がみた夢である。夢の中で、死んだ息子が父親の前にあらわれ、恐ろしいことを訴える。「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」 父親が目を覚ますと、ロウソクが倒れ、息子の棺を覆っている布に火がついている。ではどうして父親は目を覚ましたのだろうか。

(『ラカンはこう読め!』)

そしてこれに対する、ラカンの解釈を挙げてみる。

夢の機能が眠りの延長だとしたら、そして夢はそれを呼び起こした現実にこれほどまで接近することができるとしたら、眠りから離れることなく夢はこの現実に答えている、と言えるのではないでしょうか。結局、夢には夢遊病的な作用があるのです。それまでフロイトが示してきたことからわれわれがここで立てる問い、それは「何が目覚めさせるのか」ということです。目覚めさせるもの、それは夢「という形での」もう一つの現実にほかなりません。

(『精神分析の四基本概念』、『ラカンはこう読め!』からの孫引き)

「それは夢『という形での』もう一つの現実にほかなりません」とは、いかにも相対性精神学(のイメージ)らしいフレーズだろう。これには、メリーの発言「そして今は、夢と現は区別はするけど同じ物。現の現実と夢の現実、現の私と夢の私、それぞれが存在するわ」との類似点が見いだせないだろうか。彼女の、夢と現を同一とする言説の解釈の一つとして、考慮の余地はありそうだ。

3 相対性精神学とユング

さて、夢を他者と共有するには、共通する基盤が必要になることは想像に固くない。『鳥船遺跡』で蓮子がメリーの制御下にある夢の中に入室したように、メリーも蓮子も、夢を見るシステムという基盤として、身体、特に心という構造に互換性、共通のものを持たねばならない。
人間の心の構造に共通のものを見出そうとした心理学者に、カール・グスタフ・ユング(スイスの精神科医。一八七五─一九六一)がいる。ユングは、無意識の層を、個人的な生活と関係する個人的無意識と、他の人間と共通する普遍性を持つ普遍的無意識とに分けて考えた。この関係は、図式として表すと次のようになる。また、その横はフロイトの提唱した心的人格の構造関係である。(河合隼雄『無意識の構造 改版』三七頁、フロイト『精神分析入門 下』三九〇頁から)

図式のように、ユングによる心の構造は、上から意識、個人的無意識、普遍的無意識の階層構造を取っている。(普遍的無意識は集合的無意識とも言う。) 意識はいわゆる自我のすみかであり、その下に巨大な無意識の空間が広がっている。普遍的無意識は、個人的に獲得されたものではない。生来的なもので、人類一般に共通した普遍的なものであると考えられる。しかし、この普遍的無意識の領域はあまりにも深層に存在するため、人間はこれを意識することがまったくと言っていいほどない。この普遍的無意識には、家族のような団体に特徴的な家族的無意識や、ある文化圏に共通する要素が特徴的な文化的無意識も認められる。
こう見ると、フロイトが提唱した心の構造との相違を図ることができる。
そしてここでは、この普遍的無意識こそがほかならぬ心という構造の互換性と考えることができる。つまり、蓮子とメリーがこの普遍的無意識を介して、トリフネの夢の共有に成功した、と考えることができるのだ。
少し話がそれるが、ユングは精神科医として、統合失調症の患者と接することが多かった。ユングが普遍的無意識に目を向けたのは、一見無秩序のように見える彼らの病状に、普遍的な類比性を見出したからだ。そしてこれを理解するために、ユングは神話や伝説、宗教書などを読みあさったとされる。これに関する、ユングの興味深い話がある。

ユングの述べるところによると、彼はある病院でひとりの統合失調症患者が目を細めて窓外の太陽を見ながら、頭を左右にふっているのを見た。患者はユングに対して、太陽のペニスが見え、自分が頭を左右に動かすとそれが動き、それが風の原因であるという。その後、ユングがギリシャ語で書かれた古いミトラの祈祷書を読んでいると、その中に、太陽からありがたい筒が下っているのが見えること、それが西に傾くと東風が吹き、東に傾くと西風が吹くことなどが記されてあった。前記の患者はギリシャ語は読めないし、この本の出版も患者の妄想をユングが聞いてからのちのことであったから、患者がこのような内容を先に読んでいたとは考えられない。

(河合隼雄『無意識の構造 改版』)

このような事情(神話や伝説、宗教との関わり)や、錬金術やマンダラ、あるいはシンクロニシティといった概念を通じ、ユングはオカルティズムと親和性が高いと評されることがある。また、ユングの博士論文は「オカルト現象と呼ばれるものの心理学と病理学」であった。そして、秘封倶楽部といえばオカルトサークル。ユングの心理学は、秘封倶楽部の二次創作や考察を考える際に良い題材になることは間違いないだろう。

4 科学世紀の科学観

相対性精神学の研究方法が、夢を介在して現実にアプローチすることであれば、これは現在の心理学・精神医学の枠を超えた、全く新しい方法論になる。現代にとっては構造主義が数学、言語学、生物学、精神分析、文化人類学、社会学など多岐に影響を与えたように、相対性精神学が心理学はもちろん、物理学を始めとする自然科学、哲学、文芸批評など多岐にわたって影響を与えることは想像に難くない。

夢というのは現の反意語なんかじゃない。最近の常識では同意語なのよ。

(『夢違科学世紀』)

相対性精神学が夢を重視するという特徴は、本稿で紹介した精神分析の手法を彷彿とさせる。精神分析では、心の構造を知るため、患者の疾患を治療するために、患者が見る夢を分析するという手法をとっており、またその一連の流れを学会に発表するというのも珍しくなかった。
しかし、この精神分析、精神医学の方法論としては今現在廃れているとはしても、まだ完全に息絶えたわけではない。例えばスラヴォイ・ジジェク(スロベニアの哲学者。一九四九~)は、「精神分析の死を祝う、勝ち誇った喝采の新たな波に迎えられた」と称するニ〇〇〇年の『夢判断』出版百周年について、こんなことをいっている。

〔…〕にもかかわらず、精神分析の追悼式は時期尚早で、まだ余命のある人を追悼しているのかもしれない。フロイトの批判者たちが信じている「明白な」真実とは正反対に、私の目的は、今こそ精神分析時代が到来したのだということを示すことである。

(『ラカンはこう読め!』)

そういうわけで、現在において、その医学的価値が失われたと考えられてきた精神分析が、科学世紀という新たな時代において、その需要に適い、再興したと考えることもできる。というのも、認知科学と精神分析はその方法論にしても目的にしても、大きく異なっており、同じ土俵に立たせることはできないものなのだ。
そう考えれば、劇中のメリーとリンクした相対性精神学の実験手法として、このようなものが想像できそうだ。

密室の中にツボがある。部屋は鍵で閉ざされており、鍵は実験の監督者が持つ。ツボ自体は全く一般的なもので、特にこれといった仕掛けもない。部屋内部はカメラによって監視されており、異常があった場合すぐに察知可能である。さて、被験者には夢の中にダイブしてもらい、夢の中でこの密室の中のツボを割ってもらう。被験者が就寝してからしばらく、ツボが空中を浮遊し地面に叩きつけられる様子がカメラを通して見えた。監督者は興奮した様子で被験者を起こし、「ツボを割ったのは君か?」と聞く。被験者は「はいそうです」と認め、学者たちの歓喜とともに、実験は成功に終わる。

とどのつまり、相対性精神学者たちの目的は、被験者に明晰夢を見てもらい、夢の中で現実に干渉してもらい、その干渉(すなわち「超越的な因果」)から、普遍的な真実を導くことだ、と想像できる。例えば、『鳥船遺跡』の場合、それは現のトリフネであり、キマイラの存在だっただろう。しかし、あらかじめトリフネのキマイラの存在が判明していない(もしくは、ただ公表されていない)点で、相対性精神学という手法は、その画期的方法から一時期もてはやされたとしても、その研究成果は安定的に収穫されるものでもないだろうことが予想される。

私はメリーから手渡された幾つかの品を見つつ、頭の中を整理していた。メリーは夢と現は同じ物だと言っていたが、そんな筈がない。例え昨今の相対性精神学の常識がそうだと言っても、それはあくまでも精神の中での話であって、夢の中の物体が現実に現れてしまっては困る。質量保存の法則が成り立たない。エントロピーはどうなるのだろう。

(『夢違科学世紀』)

相対性精神学が過去に確かな実績を示すことができたのであれば、科学主義者の蓮子もここまで動揺しなかっただろう。もし「夢の中にある物体を現実に持ち帰ってみせた」という驚くべき事例が過去にあり、十分に実証されたのであれば、それはメリーが蓮子に指摘するまでもなく、時代の「常識」として浸透していたはずだからである。だから、この「夢と現の干渉」が、相対性精神学の理論的に裏付けがなされていたとしても、その実証については停滞気味なことが予想される。だからこそ、それを自在にしてみせたメリーの能力が、相対性精神学の研究者にとって垂涎ものであるということは想像に難くない。
相対性精神学は、その理論体系が社会需要に適ったから成立したに違いない。つまり相対性精神学は、旧来の精神医学・認知科学が抱える問題を解決するために紡ぎ出されたと言っていい。(そうでもなければ、この学問がアカデミック的価値を持つとは到底思えないからだ。そして時代の新たな常識となるには、それ以上のことが求められるだろう。)
認知科学の問題点は、得られた情報以上のことを把握することが出来ないという点だ。例えば、「感情の働きが脳のどの部分と関わっているか」を検証する場合、結果として観測された「大脳辺縁系、脳幹、大脳皮質の間を巡る神経回路が強く関わっていること」以上のことを把握することが出来ない。これはすなわち、クオリアとは何か、欲求・欲望とは何か、精神分析では超自我・自我・エスなどの名で積極的に言及された、人間の心の原理的な構造を説明することが出来ないということだ。
また、人類が統合失調症を治せるようになるには、人類がガンを克服する以上の時間がかかるという話がある。

治せない病気は、事実上“存在しない”のだ。

(『伊弉諾物質』)

そしてそれは、認知科学が権威としてある時代でもそうで、相対性精神学が科学世紀の常識ということは、それまでの常識であった科学的権威たる認知科学の敗北を意味し、さらに統合失調症をはじめとする精神病の治療法とその原因も確立された、ということではないだろうか。「絶対性精神学」でも、「相対性心理学」という呼称でもないという事実が、これを裏付けているのではないだろうか。そういう意味で、従来の心理学との区別という示唆を、そこに汲み取ることができるのである。
つまり、相対性精神学は、新たなエピステモロジー(方法論)であると言うことができる。時代の「常識」を、ここまで顕著に変える動きというのは、そこまで頻繁に起こるものではない。蓮子の考えに代表されるこれまでの現代的な科学的手法、論理実証主義──つまり因果があれば、その因果の実証を行おうとする──に対して、その因果を絶対的・超自然的なものとし、それを様々な事象に応用するのが、相対性精神学ではないだろうか。ある現象を超自然的なものとして、その実証を無視する方法論は、一種の信仰ともいえるだろう。この考え方は、現代人のわれわれにとって一見突飛でナンセンスにしても、現代が持つ(それこそソシュール的な、科学も一つの文化的立場にすぎないという)科学のアポリアを超克可能な、唯一のアプローチであると考えることもできる。そして一般的な「科学」を逸脱するこの思想体系は、それが一般常識となる時代である「科学世紀」という呼称に対する皮肉とも取れるのだ。


参考文献:
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』丘沢静也訳、光文社、二〇一四年。
冨田恭彦『デカルト入門講義』筑摩書房、二〇一九年。
ルネ・デカルト『省察・情念論』井上庄七、森啓、野田又夫訳、中央公論新社、二〇〇二年。
丸山圭三郎『ソシュールを読む』講談社、二〇一二年。
ジークムント・フロイト『新訳 夢判断』大平健訳、新潮社、二〇一九年。
ジークムント・フロイト『精神分析入門』高橋義孝・下坂幸三訳、新潮社、一九七七年。
『旧約聖書』日本聖書協会、一九八七年。
河合隼雄『無意識の構造 改版』中央公論新社、二〇一七年。
スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳、紀伊國屋書店、二〇〇八年。

ZUN's Music Collection
・『夢違科学世紀 〜 Changeability of Strange Dream』
・『鳥船遺跡 〜 Trojan Green Asteroid』
・『伊弉諾物質 〜 Neo-traditionalism of Japan.』

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