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「確信しているから、祈る」テサロニケの信徒への手紙二3:1~5 日本キリスト教団川之江教会 復活節第6主日礼拝メッセージ 2023/5/14

 バーベナという花をご存知でしょうか。日本では馬鞭草とかクマツヅラとか、花の形が桜に似ているので美女桜とも呼ばれたりします。ちょうど今くらいの時期から咲き始めて、秋の終わり頃までほぼ一年、白や赤・ピンク・紫色などの花が咲くようです。また葉っぱには鎮静作用や炎症を抑える効能があって生薬として昔から重宝されたり、虫除けとかハーブとして飲み物や料理とかにも使われたりしています。なのでヘブライ語で「良い植物」という意味の「バーベナ」という名前が付けられたようです。伝説ですがキリストが十字架に架けられた時、ゴルゴダの丘にバーベナの花が咲いていたという話もあります。そういう人を癒す花ということに託したのでしょうか、白いバーベナの花言葉は「私のために祈ってください」なのだそうです。

 皆さんも、「私のために」あるいは「私たちのために祈ってください」と誰かに願うことがあると思います。それはどんなときでしょうか。それは例えば、自分が祈るだけでは足りないと思うからかもしれません。自分は力の限り祈っているけれども、それだけでは神様が願いを聴いて下さらないかもしれないから、もっと多くの祈りが必要だと思うからかもしれません。あるいはまた、自分自身が不安で挫けそうになるからかもしれません。神様はきっと願いを聴いてくださっていると信じているけれども、そんな自分を支え励ましてくれる力が必要だからなのかもしれません。

 パウロもまた、テサロニケ教会の信徒たちに<わたしたちのために祈ってください>と願っています。二つのことを祈ってほしいと願っています。一つめは<主の言葉が・・速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように>、もう一つは<わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように>という祈りです。
 テサロニケは、パウロが二度目の宣教旅行で初めて訪れたマケドニア州の都が置かれた町でした。今でもアテネに次ぐギリシア第二の都市と言われるところです。パウロはユダヤの会堂礼拝に三週間通い詰めて、救い主メシアが苦しみを受け死者の中から復活されたこと、そのメシアはイエスという人であることを伝えました。福音を受け入れテサロニケ教会の一員となったユダヤ人はそんなに多くはなかったようですが、会堂礼拝には多くのギリシア人が性別問わず参加していて、むしろ彼らの中から数多くの人たち教会の一員となっていきました。反発するユダヤ人との間でいざこざが起こりましたけれども、主の言葉は<速やかに宣べ伝えられ、あがめられ>たのです。
 けれどもその後に訪れたコリントでは、パウロの宣教はあまりスムーズではなかったようです。特に終末論を熱狂的に語り、人々の恐怖と不安を煽る人たちに悩まされていたのです。本来の主イエスが語られた<神の国が近づいた>という福音は、救いと平安を告げるものでした。その福音が歪んで広まったので、パウロの宣教が滞ってしまっていたのです。この苦境をなんとか打ち破りたいパウロは神様に祈っていたのです、自分たちが熱狂的な終末論者<から逃れられ>て、<主の言葉が>テサロニケでそうだったように<速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように>と。そしてテサロニケの信徒たちにも同じように祈ってほしいと、手紙で書き送ったのでした。でもなぜパウロは、こんな願い事をしたのでしょうか。かつてない苦境に遭って、自分たちで祈るだけでは足らないと思ったのでしょうか。あるいは不安に負けて、コリントでの宣教に挫けそうになっていたのでしょうか。
 パウロとて超人ではありませんから、不安が全くなかったわけではないと思います。挫けそうになることもあったのだろうと思います。でも、それだけで<祈ってください>と願ったのではありませんでした。パウロは二つの祈りを願うと共に、二つの確信を述べています。一つは主が<必ずあなたがたを強め、悪い者から守って>くださるということ、もう一つはパウロが伝えたことを<あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれること>、この二つのことを<確信して>いると述べているわけです。これはどういうことでしょうか。いま<悪い者>から逃れられたいのはパウロの方だったはずなのに、テサロニケの人たちが悪い者から守られることを確信するとはどういうことなのでしょうか。またテサロニケの信徒たちが<現に実行しており・・これからもきっと実行>することとは、何のことでしょうか。
 実はコリントを襲いパウロを悩ませていた熱狂的終末論の波は、テサロニケにも来ていたのです。「もう終末は来ている」と熱狂的に語り恐怖と不安を煽る人たちに、テサロニケの信徒たちも<動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたり>して、せっかく歩んでいた主の道を外れようとしていたのです。パウロは、そのことを知っていました。パウロやコリントの人たちが立たされていた同じ苦境に、テサロニケの人たちも立たされていたのです。ですからパウロが自分たちのために祈ってほしいと願った特に二つめの祈りは、テサロニケの人たちのための祈りでもあったのです。
 だとしたら、パウロはなぜ「祈っています」と言わなかったのでしょうか。主が<必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます>ように、また主の道を歩むことを<これからもきっと実行して>くれるように祈っていますと、なぜ言わなかったのでしょうか。「<わたしたちのために祈ってください>、あなたがたのためにも祈っています」と言うのが自然なような気がします。それともパウロが確信したのは、もはや祈る必要がなかったからなのでしょうか。だとすれば、テサロニケの信徒たちが悪い者から守られることはもはや確実で祈る必要がなく、パウロたちが悪い者から逃れられることは確信が持てないから祈ってほしいということになってしまいますが、そうなのでしょうか。
 この手紙を読んだテサロニケの信徒たちも、おそらく同じことを考えたのかもしれません。だとしたら、こんな疑問が湧いてくるでしょう「自分たちのことはもう祈りは必要ないのに、パウロ先生のことは祈りが必要って、どういうこと?」。なんか変だ、どこかで思い違いをしている、そんなふうに考えを進めて行ったのかもしれません。そして気づかされて行くのでしょう「パウロ先生が確信していないはずがない。<主の言葉が・・速やかに宣べ伝えられ、あがめられる>こと、神様が<悪人どもから逃れ>させてくださることをパウロ先生が確信していないはずがない。確信して、自分たちにもパウロ先生のために祈るようにと促しておられる。だからパウロ先生は、自分たちのことも確信して祈ってくださる。主が<悪い者から守ってくださ>ることも、自分たちが主の道を外れずに<これからもきっと実行して>いくことを確信して祈ってくださっている。そして自分たちも自分のことを確信して祈るようにと促しておられるのだ」。
 
 私たちが誰かに<わたしたちのために祈ってください>と願う時、それは自分が祈るだけでは足りないと思ったり、自分だけでは不安で挫けそうになったりするからかもしれないということを最初にお話ししました。でもそれは言い換えれば、自分の祈りに確信が持ててないということなのだと思います。そもそも祈りは、神様が助けてくださるかどうか確信が持てないから祈ってお願いをするのではありません。神様の助けを確信していたら祈る必要がない、のではないのです。確信しているから、祈るのです。神様が守っていて下さり、神様が救いと平安の道に導いてくださっていることを確信しているから、祈るのです。だからパウロが<わたしたちのために祈ってください>と願っているのは実はパウロ自身のためではなく、パウロたちが神様に守り導かれていることを私たちが確信するようにと、私たちのために祈っているのではないでしょうか。

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