「すべての人に義をもたらすために」ローマの信徒への手紙9:30~10:4 日本キリスト教団川之江教会 受難節第一主日礼拝メッセージ 2023/2/26
「すべての人に義をもたらすために」という題をつけました。こういう題をつけると、これはおかしいのではないかというご意見をいただくことがあります。「すべての人に」と言っているが、聖書には<信じる者すべてに>と書かれてある。ここは<信じる者>というのが肝心なのに、一番大事なことが抜け落ちている。これでは信じない者も含まれて、信じても信じなくても関係ないことになってしまう。信じることの意味がなくなってしまう。もし言葉を短くしたいなら「信じる者に義をもたらすために」とすべきではないか。
たしかに聖書には<信じる者すべてに義をもたらすために>と書かれてあります。その言葉のどれも大事で、本当は省略できるものはありません。ただ省略はしないまでも、どこに強調点を置くかということについては読み手次第というところがあります。先の意見をくださった方は「信じる者というのが肝心で、一番大事なことだ」とおっしゃっていました。<信じる者>というところに力点を置いておられるわけです。そして「信じる者」に力点を置けば、その反対に「信じない者」はどうなるのかということに関心が向かいます。「キリストは信じる者に義をもたらしてくださる」のならば、「信じない者には義をもたらされない」。そうでなければ「信じても信じなくても関係ないことになってしまい、信じることの意味がなくなってしまう」というご意見も尤もだということになります。
ではこの言葉をローマの信徒たちに送ったパウロは、何を意図していたのでしょうか。キリストは信じる者に義をもたらし、信じない者には義をもたらされないということを伝えようとしていたのでしょうか。だから信じる者になりましょうと言いたかったのでしょうか。実はこの「信じる者すべてに義がもたらされる」という考え方、難しく言えば「信仰義認論」と言うのですが、パウロが当時の人たちに一番伝えたかったことです。ですからパウロがこの言葉に込めた思い、そして何を伝えようとしているのかということをちゃんと受け止めることはとても大事なことだと思います。先ほど「どこに強調点を置くかは読み手次第」と言いましたけれども、それがパウロの意図と違ってしまったら、それこそ意味のないことになってしまうからです。
パウロは、異邦人にキリスト教を伝えることに尽力した人です。聖書で<異邦人>と言えばユダヤ人以外の人を指していますから、言い換えればパウロはユダヤ人以外の人にキリスト教を伝えた人ということです。そしてそれは裏を返せば、それまでのキリスト教はユダヤ人にだけ伝えられていたということになります。
キリスト教はユダヤ教から派生したと言われます。それはキリスト教の神とユダヤ教の神は、同じ神様だということです。ユダヤ人は、神様から与えられた律法を守ることで信仰を表していました。律法には倫理的な教えから生活習慣・社会的なルールまで、神の民として相応しく生きるために必要なことが幅広く決められています。ユダヤ人は律法を守り神の民として生きていくことを、誇りにしていたのです。
その神様を、パウロはユダヤ人以外の人にも伝えていきました。それは単純に言えば神の民として相応しく生きるための律法も同時に伝えられ、ユダヤ人以外の人にも律法を守ることで信仰を表すことが求められることになります。けれどもそこには、大きな問題がありました。というのも律法は、信仰的なことと生活習慣や社会的なこととが密接に結びついていたからです。ユダヤ人とは異なる文化や社会の中で生きている人たちが律法を守るということは、生活習慣を変え、時には社会に背を向けて生きなければならないということです。逆に言えばそうしなければ、どんなに神様を信じていても神様から相応しい者とされない、つまり神様の義がもたらされないことになるのです。
主イエスは、そんな律法主義のまやかしを暴いていました。当時のユダヤ社会では、律法は権力の道具にされていました。権力者は律法を自分たちの都合の良いように解釈し、その解釈に基づいて守るのですから、形の上では律法違反になりようがありません。そしてその裏で不正を働き、また一方では人々に律法を厳格に守ることを求め人々を苦しめていました。とても神の前に相応しいとはいえない政治を行っていたのです。主イエスはそんな権力者のまやかしを追求しました。そして律法主義に苦しめられていた人々と共に暮らし、あなたがたにこそ神様の義がもたらされる、あなたがたこそ神様に相応しい者とされていると言われたのです。それが、主イエスの福音といわれるものです。
そんな主イエスの福音は、ユダヤ社会から律法に反しているとされました。律法主義に苦しめられていた人たちには歓迎されましたけれど、権力者たちには目の上のたんこぶにされたのです。主イエスは何度も身の危険に晒されて、ついに十字架刑に処せられてしまったのです。
もともと律法は、神様への信仰を表すためのものでした。神様を信じ神様に相応しい者とされていることに感謝し、その喜びを表現する手段だったのです。そんな律法に苦しめられ、律法を守らなければ神様に相応しい者とされないというのは、本末転倒と言わざるを得ません。<律法の目標>は人々にそれを守らせることではなく、私を相応しい者としてくださる神様に感謝することです。主イエスの福音は、そのことを伝えたのです。
そしてパウロは、主イエスの福音はユダヤ人以外の神様を信じる人たちにも当てはまると考えました。民族としての文化や習慣をユダヤ式に変えなくとも、神様を心から信じれば神様に相応しい者とされる。いや厳密にはそうではなく、既に神様に相応しい者とされていたことが分かる、それが神様の義がもたらされるということなのです。
<キリストは・・信じる者すべてに義をもたらすために・・律法の目標>となられました。ここでは信じるとか信じないとかが問われているのではなく、律法を守っているとか守っていないとかということが問われています。そしてこれまでの、神様を信じていても律法が守れない者は神様の義がもたらされないという考え方を改め、神様を信じる者には律法を守っているかどうかは関係なく<すべてに>神様の義がもたらされると言っているのです。
ですから強調点は<すべてに>にあります。誰かと誰かを比べて一方を排除しようとするのではなく、誰も排除されることなく神様は私たちにすべてに義をもたらされる、私たちすべてを神様に相応しい者としてくださる、そのことを信じて受け入れる者でありたいと思います。
イエス・キリストの福音をより広くお伝えする教会の働きをお支え下さい。よろしくお願いいたします。