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「守る集会から働く教会へ」使徒言行録2:1~6 日本キリスト教団川之江教会 ペンテコステ礼拝メッセージ 2023/5/28

 ペンテコステ、おめでとうございます。ペンテコステはクリスマス、イースターと並んでキリスト教の三大祭の一つに数えられているのですが、教会の中でも今一つお祭り感がありません。「ペンテコステおめでとう」という挨拶も、いまだに言い慣れない感じが拭えません。もちろんお祭り騒ぎをすればいいというものではないのですけれども、心からお祝いできる工夫をもう少ししてもいいのではないかなと毎年思いながら今日を迎えています。
 ペンテコステは主イエス・キリストが弟子たちの前に復活されてから50日目、弟子たちに聖霊が降ったことを記念する日です。ですから日本語では聖霊降臨日とも言います。ただ「ペンテコステ」という言葉に、聖霊が降るという意味はありません。言葉の意味は「五十番目」です。そしてユダヤ教では旧約の時代から、過越の祭から数えて五十日目に<五旬祭>すなわちペンテコステの祭が行なわれていました。ペンテコステの祭では何が祝われていたかというと、もともとは小麦の収穫祭でした。旧約聖書には<七週祭>と呼ばれていますが、7×749数えで五十日目という計算です。またエジプトを脱出した日、そもそもの過越の日から50日目にモーセがシナイ山で十戒を授かったということから、律法が授けられたことを祝う祝日でもありました。ですからペンテコステはユダヤ人にとって、盛大な祭りの日だったのです。
 ですから<五旬祭の日・・エルサレムには天下のあらゆる国から>大勢の<信心深いユダヤ人>たちが<帰って来て>、盛大なお祭りに参加していました。一方主イエスの弟子たちは、いつもの家に集まって共に祈り合っていました。そのとき<激しい風が吹いてくるような>轟音が<家中に>響き渡ります。<そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ>て、弟子たち<一人一人の上にとどま>ると、弟子たちは<聖霊に満たされ>て、いろいろな<国々の言葉で話し出した>という不思議な出来事が起こったのです。

 <聖霊に満たされ>るということを、皆さんはどんなふうにイメージされるでしょうか。たとえば元気が体中にみなぎって来る感じでしょうか。あるいはもやもやとした気分がすっきり鮮明になっていく感じでしょうか。ほかにも皆さんなりの表現があるかもしれませんし、言葉にできない、実はよく分からないというところかもしれません。そもそも「聖霊」というもの自体、説明するのが難しいように思います。けれども聖書は、聖霊についてイメージしやすいように伝えてくれています。それは、聖霊は風のようなものだということです。もちろんイメージです。聖霊は風だと言っているわけではありません。ただ旧約の原文であるヘブライ語でも新約のギリシャ語でも、「聖霊」と「風」は同じグループの言葉なのです。他にも「息」が同じグループです。馴染みのある風と息で考えてみましょう。
 風も息も実体がありません。形や色がありませんし、触ることもできません。ここにあると示すこともできません。けれども吹くと、肌で感じることができます。音が聞こえます。物を動かす力があります。そしてその動いた物を見て風や息が吹いたこと、その力が強いか弱いかを見ることができます。穏やかに吹けば安らぎを感じますし、激しく吹けば恐怖を感じます。特に息は、命と結びついています。息があれば生きていて、息が止まれば死んでしまいます。聖霊は、そのようなものだと聖書は伝えています。形と色とかここにあるとか言うことはできないけれども、働けば感じられる、動かされる人を見て働きがわかる、それを聖霊と呼んだのです。
 さて弟子たちが<聖霊に満たされ>たとは、どのような体験だったのでしょうか。それは<突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ・・家中に響>き渡るような体験でした。大型台風に襲われたときの感じでしょうか。だとしたら、まずは恐ろしい体験だったと言えるでしょう。家が壊れないか、怪我をしたり死んだりしないか、怖くなってしまいます。ただこういう台風とか雷とかに襲われると、ワクワクするという人もいたりします。私はそういうことはありませんが、皆さんはどうでしょう。いずれにしても、心が大きく動かされることは確かなことのように思います。命の危険を感じるというのは、裏を返せば命を感じているということです。恐怖を伴いながらも心が動かされ、普段何気なく過ごしてきた命の息遣いを強く感じた、そういう体験だったのではないでしょうか。
 では風が聖霊を表していたのだとすれば、<炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった>というのは、何を表しているのでしょうか。実はこのフレーズに関しても、同じグループの言葉を二つ見つけることができます。それは<炎のような舌>の「舌」です。そして「舌」と同じグループにあるのが、弟子たちが話しだした<ほかの国々の言葉>の「言葉」です。「風」と「聖霊」が対応していたように、「舌」と「言葉」が対応しているのです。「舌」と「言葉」が同じグループにあるというのは、イメージしやすいのではないでしょうか。
 つまり<炎のような舌>とは、舌の形や色を表しているだけではないのでしょう。<炎のような舌>は「炎のような言葉」ということですから、弟子たちはただ彼らの言葉とは違う<ほかの国々の言葉>を話しだしただけではなく、人を熱くする言葉、人の心を燃やすような言葉を話しだしたのです。それも、弟子たちそれぞれに能力があったからではなく、聖霊の激しい力に突き動かされて実現したのです。それこそが、ペンテコステの日の出来事だったのです。

 ところで、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われます。初めてキリスト教会が生まれた日ということですが、具体的にはどういう意味なのでしょうか。教会が生まれたとは、どういうことなのでしょうか。
 私たちの川之江教会は今年創立70周年を迎えますが、言い換えれば川之江教会は今年70歳の誕生日を迎えるということです。では川之江教会の誕生とは、具体的には何を指して言っているのでしょうか。少なくとも、川之江教会という名の教会堂が建てられた日ではありません。もしそうなら、川之江教会は今年10歳です。それまでの60年は産みの苦しみの期間で、10年前にようやく川之江教会は産声を上げたということになりますが、私たちはそんなふうには考えていません。では川之江教会という看板を上げ牧師のもとに信徒が集まって、主日ごとに礼拝を献げるようになった日でしょうか。あるいは役員会という教会組織が作られた日でしょうか。たしかに川之江教会は70年前、森田牧師のもとに20数名の信徒が集まって主日ごとに礼拝を献げるようになり、役員会を組織して教団の承認を受けた日を教会創立日、教会の誕生日としています。
 ではペンテコステは、そういう意味で、この世に初めてキリスト教会が誕生した日なのでしょうか。それは。少々違うのではないかと思います。主イエスの弟子たちは主イエスの復活後、定期的に集まって共に祈り、復活の主イエスが語られる神の国の話に耳を傾けていました。主日ごとという記録はありませんが、主日とは主イエスが復活して初めて弟子たちの前に現れた日ですから、この日は特別の思いを持って集まっていたことが窺えます。先週主イエスが昇天された後の主日にも、弟子たちは集まって共に祈っていました。そしてユダの後任となる使徒を選んで、組織を整えることさえしたのです。礼拝を献げる集会という意味での教会、信仰者の組織という意味での教会はペンテコステの前から既に誕生していたと言えるでしょう。
 では「教会の誕生日」は、組織が整った昇天後主日にするのが相応しいのでしょうか。それともペンテコステを「教会の誕生日」にすべきほかの理由があるのでしょうか。
 ペンテコステの日に初めて行われたこと、それは聖霊に満たされた弟子たちが大勢の人々の前で、それぞれにわかる言葉で語り始めたことでした。組織立って集まり共に礼拝を献げていた弟子たちが広く社会に向けて宣教を始めた日、それがペンテコステの日なのです。ですから「教会の誕生日」とは、礼拝と組織を守る集会から神の福音を広く宣べ伝える教会が生まれた日です。その働きのために聖霊が一人ひとりに降された、今日はそのことをお祝いしたいと思います。

イエス・キリストの福音をより広くお伝えする教会の働きをお支え下さい。よろしくお願いいたします。