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「思慮深くして本質を見極める」使徒言行録19:35~40 日本キリスト教団川之江教会 部落解放祈りの日主日礼拝メッセージ 2023/7/9

 最初期のキリスト教がユダヤ教を離れて世界中に広まったのは、皮肉にもユダヤ教がキリスト者たちを迫害したことがきっかけでした。当初ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちがやろうとしたことは、直接主イエスの処刑に関わったエルサレムの人たちに、その自覚を促すことと、主イエスこそが待ち望んでいたメシア=キリストであることを受け入れるよう勧めることでした。あの過越祭の前夜に異様な空気に呑まれるように「主イエスを十字架につけろ」と叫んだ人たちは使徒たちの促しに応じて自分たちの過ちを悔い、主イエスこそキリストであることを受け入れ使徒たちのグループに参加していきました。一方もともと主イエスの処刑を先導していた指導者たちや主イエスを待望のメシア=キリストと認めない人たちは、逆に使徒たちのグループを迫害したのでした。その結果迫害された人たちはエルサレムを追われて散り散りになったのですが、彼らはただ難を逃れただけではなく行った先々のユダヤ人たちにも主イエスの福音を伝えて行ったのでした。そしてその福音は、思いがけないことにユダヤ人以外の人たちにも受け入れられていったのでした。
 その一つにアンティオキアという町があって、そこではバルナバとパウロが宣教に務め、そこで初めて主イエスの福音に生きる人たちが周りの人たちから<キリスト者>と呼ばれるようになったのでした。そしてバルナバとパウロは、他の地域にも主イエスの福音を必要としている人たちがたくさんいるのではないかという考えに導かれて、逃亡しながらではなくて自らの意思で宣教のための旅行に出かけることにしたのでした。パウロの宣教旅行の始まりです。

 最初に出かけたのは、アンティオキアの沖合にあるキプロス島でした。アンティオキア教会の中心メンバーにキプロス島出身の人がいたからかもしれません。それに彼は、アンティオキアに最初に主イエスの福音を伝えた人たちの一人でした。パウロたちは更にアジア州=今でいうトルコにわたって、福音を伝えていきます。旅行は二度・三度と回数を重ね、アジア州からさらに海を渡って今でいうヨーロッパ=マケドニアやギリシャの町にまで足を延ばしていったのです。行く先々で主イエスの福音が受け入れられ、教会が生まれていきました。けれども順風満帆というわけではなく、迫害に遭うことも珍しいことではありません。迫害者はたいてい、キリスト者を異端視していたユダヤ人でした。パウロは殺されそうになるのを逃げながら次の町に移り、迫害者に追いつかれるということもあったのです。
 その一方で、その町のユダヤ人以外の人たちの妨害に遭うこともありました。たとえば三回目の旅行のとき、マケドニアからエルサレムへの帰り路、アジア州のエフェソに滞在していた時のことです。
 エフェソという町は、ギリシャの女神アルテミス崇拝の聖地でした。壮大なアルテミス神殿が建てられ、その宮は遥か雲の上に突き抜けてそびえるほどで、当時の世界七不思議の一つにも数え上げられていたそうです。ですからエフェソは世界中の各地から参拝客、だけでなくておそらくそれ以上の観光客が訪れる一大都市でした。商業が盛んで、野外劇場など文化施設も作られていたようです。観光客目当ての目玉商品は、銀細工で造られたアルテミス神殿の模型でした。人気商品でしたからたくさんの職人が模型の製作に関わっていて、その売り上げが彼らの生活を支えていたようです。
 ところが、その売り上げになぜか翳りが見えてきました。放っておくと商売が成り立たなくなります。原因は何だろうとデメトリオという銀細工職人の親方が調べてみますと、どうもパウロというよそ者が商売の邪魔をしているようだということに思い至ります。デメトリオが言うには、こういうことでした「<あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、・・多くの人を説き伏せ、たぶらかしている>。このままでは<我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがある>。それ<ばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、・・全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまう」。デメトリオは配下の職人たちや他の同業者たちを集めて、そう訴えたのです。
 それを聞いた職人たちや同業者たちは<ひどく腹を立て、『エフェソ人のアルテミスは偉い方』>と叫んで、パウロに同行していた二人を捕まえて野外劇場の中に連れ込んでしまいます。騒ぎは参拝客や観光客も巻き込んで、町中が大混乱になってしまいました。パウロは二人を助けようと劇場の中に入ろうとしますが、「危険だからやめてください」と弟子たちが止めます。パウロに賛同していたアレクサンドロというユダヤ人が、騒ぐ<群衆に向かって弁明しようと>試みましたが、誰も耳を貸そうとはしませんでした。そして騒ぎは、二時間ほども続いたのでした。
 
 ところでパウロは本当に<『手で造ったものなどは神ではない』と言って、・・多くの人を説き伏せ>たのでしょうか。アルテミス神殿がそびえる聖地で大っぴらにそんなことを言ったら、エフェソの人たちの逆鱗に触れて大混乱するのは目に見えています。パウロもそのくらいは分かりそうなものです。分かっていてそう言ったのなら、喧嘩を売っているようなものです。パウロは、そんな過激な宣教をしていたのでしょうか。
 パウロは以前、二回目の旅行でアテネを訪れたときに、こんなことを言っていました。アテネはギリシャの首都で、町の至るところにギリシャの神々の像が置かれ、祭壇が築かれています。道を歩く人たちは思い思いに祭壇の前で立ち止まり、拝みながら先を行くのです。パウロはその様子を見て、こんなことを言っていたのです<アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの・・をわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません>(17:22-24)。
 パウロは、いろいろと配慮しながら話をしています。第一にアテネの人たちの信仰に、敬意を表しています。第二に主なる神について説明するのに、ギリシャの神々を否定するのではなく、敢えて神々の一つに位置付けています。<知られざる神に>と刻まれた祭壇が、本当に主なる神のために築かれたものなのかどうかはわかりません。けれども敢えてそうすることで、アテネの人が受け入れやすいようにしているのです。その上で、この天地の主なる神は、手で造った神殿などにはお住みにならないと言ったのです。これは<手で造ったものなどは神ではない>と言うのとは似て非なるものです。アテネでそういう心配りをしたパウロが、エフェソで相手に喧嘩を売るような態度をとるでしょうか。
 
 さて、話をエフェソに戻しましょう。騒ぎが二時間ほど続いた頃、町の書記官が騒ぎを収めにやってきます。当時の書記官はトップ官僚ですから、さすがに逆らうことはできません。書記官は開口一番<エフェソの町が、偉大なるアルテミスの・・守り役であることを・・否定することはできない>と言って、町の人たちをなだめます。それは町の人々がエフェソの誇りを傷つけられたことに感情を乱していたからです。そして次に、この<者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない>とパウロたちの濡れ衣を晴らしています。やはりパウロは<手で造ったものなど神ではない>というような冒涜的なことは言っていなかったようです。それはつまり町の人々は、事実確認をしないまま二時間も叫び続けていたということです。だから書記官はこう言うのです<静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない>。
 <静かにしなさい>とは、二つの意味があるようです。一つは、叫ぶのを止めて静粛にしなさいということでしょう。そしてもう一つは、冷静になりなさいということです。町の人々が叫び出したのは、銀細工師の親方デメトリオから「パウロはアルテミス神殿をないがしろにしている」というようなことを言われのがきっかけでした。町の誇りが傷つけられ自分のプライドも傷つけられた思いになって、感情が高ぶり冷静さを失ったのです。そして<何一つ弁解する>余地のない<無秩序な>ことに走ってしまったのです。だから書記官は「静粛にしなさい」と言ってただ騒ぎを鎮めたのではなく、「冷静になりなさい」と人々を諭したのではないでしょうか。
 銀細工師の親方デメトリオまた、同じかもしれません。商売を邪魔されて感情的になって、本来は配慮あるパウロの言葉を悪く聞き違ったのかもしれません。あるいはパウロを貶めようとわざと「冒涜的に」歪めて広めたのかもしれませんが、それとて冷静さを欠いた判断だと言えるでしょう。もっとも根っからの悪意があった可能性もありますが、少なくとも書記官は彼に悪意を認めていません。混乱の原因になったデメトリオの発言を戒めるのでなく、冷静になったところで本当に商売に支障があったのなら正式に訴えるようにと勧めているのです。
 人は誇りを傷つけられると感情を高ぶらせてしまいます。正しい判断ができなくなり、本当に傷つけられたのかも確かめないまま、無分別な行動に走ってしまいがちです。思慮が浅くなり、本質を見失ってしまうのです。
 私たちの周りには、感情を揺さぶる言葉が溢れています。理不尽な出来事に心が持ってかれそうになります。けれども私たちに正義を示し、私たちを愛で包んでくださる主なる神を<否定することはできないの(です)から>、いつも冷静でありたいと思います。分別を失わないようにしたいと思います。そして本質を見極められるよう、思慮深くありたいと思います。
 
(祈り)
 部落解放のために祈ります。それは私たちの心の中に、また私たちの社会に根を深くおろしてしまっている差別からの解放を願う祈りです。感情が高ぶる時、差別は表に現れて人を傷つけてしまいます。差別が完全に根絶やしされることを願いますが、それが叶わないうちは、せめて冷静さを保ち、分別をもって皆と共に生きることができるよう、私たちを導いてください。 

イエス・キリストの福音をより広くお伝えする教会の働きをお支え下さい。よろしくお願いいたします。