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「知識は人を昂らせ、愛は人を造り上げる」コリントの信徒への手紙一8:1~13 日本キリスト教団川之江教会 復活節第4主日礼拝メッセージ 2023/4/30

 この地域に赴任して早11年目に入りましたが、来て驚いたことの一つに町の自治会と祭りが密接に結びついていることでした。町ごとに太鼓台が出て競い合うのは良いとして交通規制をしないまま公道を縦横無尽に練り巡ったり、自治会費の中に神社や地蔵の費用が最初から組み込んであったり、祭りの期間は公立の学校が休みになったり、信教の自由とか政教分離とかいったいどこの国の話かと思うほどの密着ぶりで、住民は好むと好まざるとにかかわらず太鼓祭りと無縁でいることがなかなか難しいように思います。それはこの場所に建てられた教会もまた無縁ではいられません。たとえば毎年自治会費を負担していますけれども、それは間接的に神社や地蔵に係る経費を負担していることになります。考えようによってはおかしなことですけれども、あえて事を荒立てるのもいかがなものかというような判断が働いて今のようなことになっているのだと思います。また創立70周年の講演会は当初10月の中旬の日曜日にしようと講師との交渉を始めましたけれども、祭りの期間にぶつかるということで日程変更することになりました。皆さんはこれまで、町内の祭とどのように関わって来られたでしょうか。あるいはどのように関わらないで来られたでしょうか。たとえば神社に奉納された飲食物が振舞われたとき、御神酒とか饅頭とか果物とか、どういうふうに扱われておられたでしょうか。食べ物に罪はないと割り切っておられたでしょうか。あるいは何かしらの抵抗を感じておられたのでしょうか。

 ギリシャの町のひとつコリントの教会の信徒たちも、似たようなジレンマを抱えていました。<偶像に供えられた肉>を食べていいのか、いけないのか問題です。私たちの場合は割り切るにしてもこだわるにしても、その根拠はけっこう曖昧です。根拠よりも、できるだけ事を荒立てずに丸く収めようという考えが先に立っている気がします。でもコリントの問題はもっと厄介でした。律法とか会議の決定とか根拠となるものが幾つかあって、それと信仰の問題とが複雑に絡み合って根深いものがあったようです。
 聖書において判断の根拠になるものと言えば、真っ先に思い浮かぶのは「律法」ではないでしょうか。では<偶像に供えられた肉を食べることについて>、律法にはなんと書かれているのでしょう。実はそのこと自体については何も書かれていません。というのも、そもそも偶像礼拝が禁止されていたからです。そもそも偶像礼拝をしないのですから、偶像に供え物もしません。ですから供えられたものをどうしようなんてことは、考えるまでもないことだったのです。それはユダヤ教徒だけでなく、最初期のユダヤに住むキリスト者も同様でした。<偶像に供えられた肉>は身近なところにありませんし、たとえ目にすることがあったとしても、わざわざそれを選ぶ必要がないのです。
 でもギリシャの町コリントでは、事情が全く違いました。町中にギリシャの神々の神殿があって、多くの肉が供えられました。それだけでなく当時は皇帝を礼拝する神殿まであって、そこにも多くの肉が供えられました。そして厄介なのは、その肉が市場に卸されて売られていることです。普通に市場で肉を買ってきたとしても、その肉はギリシャの神々やローマ皇帝に献げられた肉かもしれません。その判別がつかないまま、おちおちと肉を買って食べるわけにはいかないのです。
 でも、こういう考え方もできます。その肉は市場で買ってきたもので、自分が偶像礼拝をして供えたものではありません。それに律法では<供えられた肉>そのものについては何も言っていないのですから、買ってきた肉を食べても律法違反にはならないというわけです。でもここで、もう一つ悩ましい問題がありました。それは、エルサレム会議の決定です。エルサレム会議というのは、パウロが一回目の宣教旅行でキリスト者へと導いたギリシャ人たちを割礼のないままキリスト者として認めるかどうかということが議論された会議です。その結果ユダヤ人でない者は割礼を受けないでも、ユダヤ人と差別されることなくキリスト者として認めることになりました。ただその際、守るべきこと四つが決められたのです。その一つが<偶像に献げられたもの・・を避けること>でした。ただこれら四つのことは、ユダヤに住む人たちにとっては心掛ければそんなに難しいことではありません。現実的な決め事だと思います。でもギリシャの町に住む者にとっては、非現実的な机上の空論のようなものでした。そのことは、エルサレムの使徒たちには想定外だったのかもしれません。そんな遠く離れた使徒たちの机上の決定に、コリントの信徒たちは悩まされていたわけです。
 悩みながら、コリントの信徒たちはパウロの教えに思いを巡らしていました。パウロはギリシャの人たちに、こう教えていたのです<世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない>。だから肉がギリシャの神殿に供えられたとしても、偶像の神に供えられたものではないから問題はない。それはたしかに真実ですが、ある意味屁理屈だと言えなくもありません。パウロはエルサレム会議の<偶像に献げられたもの・・を避ける>という決定を受け入れながら、そもそも偶像の神などないと言って決定を意味のないものにしてしまうのですから、なかなかのしたたか者です。でもこの新しい<知識>で、コリントの信徒たちの悩みは解決しそうです。どこかの神殿から卸された肉を食べても、使徒会議の決定違反にはならないということになるからです。
 でも実際には、そんな単純なものではありませんでした。新しい<知識>では割り切れない人たちも、少なからずいたからです。子どもの頃からギリシャの神殿に祀られた神を礼拝し供え物をすることに<なじんできた>ものを、キリスト者になったからといってスパッと割り切れるものではありません。理屈ではわかっても、思いは残るのです。私たちの周りでも、同じようなことはたくさんあります。特に歳を重ねてキリスト者になろうとするとき、あるいはなった後もですが「これまで思いを込めて大切にしてきた仏壇、神棚、お寺の墓はどうしましょう」という相談は珍しいことではありません。「唯一の神を信じるなら、そういったものは意味のないものですから、捨てても構わないし置いておいても何ら支障もありません」と答えるのは簡単ですし、それが真実だとさえ思うのですが、その答えが「どうしましょう」と相談されてきた方の悩みを解決するとは限りません。いえむしろ、解決しないこと方が多いように思います。そして「思いを断ち切れないので、キリスト者になるのはやめます」ということになるかもしれません。ただそうなったとしても、「残念なことをした、一人受洗者を失った」とは思いません。その選択が本当にその人の平安につながるのなら、それで良かったと思います。でも一度はキリストの神に平安を求めようとしたその時の不安を残したままその後も過ごさなければならなくさせてしまったのだとしたら、その対応はやはり間違っていたと言わざるを得ません。

 知識は大切です。知識は人がどのように立ち、どちらに向かって歩み出せばいいのかを示してくれるからです。それでもなお知識だけでは、人は高ぶります。その知識が正しく真実を言い当てていると思うなら、なおのことその知識を他の人に教え込もうとするし、なかなか理解しようとしない人にじれったさを感じます。その知識を得てもらうことがその人のためになると思えば思うほど人は高圧的になり、その人を自分の知識の「高さ」に引き上げようとするのです。でもその<知識>は、絶対ではありません。その人が自分と同じ<知識>を持っていなかったとしても、その人は自分とは違う<知識>を持っているかもしれない、そして自分とは違うその<知識>に思いをかけているのかもしれない。そのことに自分の思いを寄せることが必要です。
 そんな私たちを、愛が造り上げます。自分を造り上げるだけでなく、同時に相手を造り上げます。自分が思いを寄せた相手と、相手に思いを寄せた自分が共に造り上げられるのです。そして造り上げてくださるのは神様です。私たちは神によって造り上げられる、愛によって造り上げられる。人を高ぶらせ、その高ぶりで相手を低めてしまう<知識>ではなく、愛によって造り上げてくださる神に、信頼し続けたいと思います。

イエス・キリストの福音をより広くお伝えする教会の働きをお支え下さい。よろしくお願いいたします。