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「みんながカリスマ」出エジプト記19:16~20/使徒言行録2:12~21 日本キリスト教団川之江教会 三位一体主日礼拝メッセージ 2023/6/4

 「カリスマ」という言葉、最近はあまり聞かれなくなりましたけれど、いっとき90年代の頃でしたか、流行語大賞の候補になるくらい流行っていました。美容師とかファッションショップの店員さんとか、その人の人気でお客さんがたくさん付くような人がカリスマ美容師とかカリスマ店員とか呼ばれて持てはやされていました。ただ「カリスマ」という言葉自体は新しいものではなくて、特別な手腕とか語り口とかで人を惹きつける魅力のある人を「カリスマ」と呼んだり「カリスマ性がある」と言ったりします。ただカリスマが持てはやされるときは熱狂的になりがちですので、一歩引いてみると胡散臭く見えたりもします。必ずしもカリスマ自体が胡散臭いということではないのですが、熱狂的な部分に本質とはズレたものが往々にしてあるからです。
 「カリスマ」という言葉は、もともと「恵み」「賜物」という意味のギリシャ語で、神様から与えられた能力、またその能力を持った人を指す言葉です。そこから転じて「一部の人々が持つ、他の人々を惹きつけ感銘を与える強い個人の性質」とされています。聖書に登場する人物で言えば、たとえばモーセとかダビデとか預言者とかが代表的なカリスマだと言っていいでしょう。指導者として、王として、預言する者として、神様から選ばれ、特別の任務が与えられ、それを遂行するための力が与えられた人たちです。そして彼ら自身カリスマ性を帯びて、人々に影響を与えていったのでした。

 ペンテコステの日、主イエスの弟子たちは<聖霊に満たされ>ました。そして炎のような熱い言葉が、弟子たちを突き動かしたのです。そして弟子たちは世界各地からエルサレムに集まっていた大勢の人たちの前で、違う言葉を話す人たちにそれぞれ分かる言葉で、熱く福音を語り始めたのでした。そんな弟子たちの姿は、まさにこの時代のカリスマそのものです。ここで弟子たちが選ばれたことも、彼らが異国の言葉で話し出したことも、その話の語り口も内容も聖霊による賜物、本来の意味でのカリスマでしたし、主イエスが逮捕され十字架に架けられようとしたときに逃げ出し、それから50日余り人前に姿を表さなかった弟子たちが、突然現れて熱く語り出したことは、人々にカリスマ性を感じさせるものでした。驚きと共に熱心に耳を傾ける人たち、その一方で戸惑い怪しむ人たち、なかには「やつらはただ、新しい酒に酔っているのだ」とあざける者もいて、その評価がまちまちなのもカリスマ的です。ちなみに弟子たちをあざける人たちがわざわざ<新しい>酒と言っているのは、熟成されていない新しい酒は悪酔いしやすいと言われているからです。つまり彼らは弟子たちを、悪酔いした手の付けられない人たちだとあざけったのです。
 でもそれは、言い換えれば現実から目を逸らす言い草だったと思います。おそらく弟子たちの言葉は、あざけった彼らにも分かる言葉で聞こえてきたはずです。そしてそれは、普通では考えられない不思議なことでした。人は不思議なことに遭ったとき、どうするでしょうか。大きく分けて二つの反応があると思います。一つは、その不思議と向き合うことです。まずは素直にその不思議を受け入れるとか、その不思議の正体を突き止めようとするとか、何か裏があるのではないかと疑ってみるとか。驚くのも、戸惑うのも、怪しむことさえもまた一つの向き合い方です。
 けれども「悪酔いだ」と一言で切って捨てるのは、向き合わない態度です。理解できないものから目を逸らし、耳を塞ぎ、考えることを止めて、心を閉ざす。弟子たちを「悪酔いしている」とあざけった人たちは本当に悪酔いしていると思って言ったのではなく、弟子たちとの関係を断ち切ろうとしたのです。関係を断ちきって、自分を守ろうとしているのです。

 さてペトロは、そんなふうにいろいろな反応をする人たちに語りかけます。<ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち>とは、声が届いている人たちの中から一部の人を限定しようとしているのではありません。この日は世界中からユダヤ人が帰って来ている五旬祭の日です。そしてローマ帝国の支配下にあったエルサレムは、多民族が住む国際都市でした。考えられる限りの<すべての人たち>に、ペトロは語りかけているのです。ではなぜ、単に<すべての人たち>と言わなかったのでしょうか。その方が、万が一にも誰かを漏らしてしまう恐れもなくなるように思います。でもざっくりとまとめたのでは、ざっくりとしか届きません。ペトロは具体的に言うことで、「あなたに言っているのですよ」と注意を促しているのだと思います。
 さらには<この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません>と言い訳のようなことを言っています。たとえば本当に酒に酔っていたとして、酔っ払いの「自分は酔っていない」という言葉ほど信用ならないものはありませんから、あまり意味のない返しのようにも思えます。ではなぜペトロは、こんな返しをしたのでしょうか。それはペトロが<わたしの言葉に耳を傾けて>もらいたい<すべての人たち>の中には、「悪酔いだ」の一言で関係を断とうとしているあなたたちも入っているのだということを敢えて伝えているのではないでしょうか。つまりペトロは、関係を断ち切ろうとしている人たちとの関係を繋ごうとしているのだと思います。
 次にペトロは預言者ヨエルの言葉を告げていますが、結構長い引用です。引用というより、ヨエル書3章ほぼ全てが朗読されています。その内容は神様の霊がすべての人に注がれるというところですが、なぜヨエル書の引用なのでしょうか。もちろんペンテコステに相応しい箇所には違いないのですが、それは後の時代からみて言えることです。それにペトロがここで話そうとしているのは、主イエスの復活の証言です。主イエスの復活によって与えられた、新しい福音を語ろうとしているのです。ですから聖霊降臨を語りたいなら、むしろ今自分たちに起こった出来事を生で語るべきだったのではないでしょうか。あの<激しい風が吹いて来るような音>は皆にも聞こえていたのですから、「そのとき私たちは聖霊に満たされたのです」と語っても良かったのではないでしょうか。でもペトロは、そうはしませんでした。もしそこに理由があるとすれば、ペトロはどうしても<すべての人たち・・・に耳を傾けて>もらいたいと願っていたからではないでしょうか。聖書の言葉は、ユダヤ人にとっては馴染みのある言葉です。いま不思議な出来事に驚き、戸惑い、怪しんでいる人たち、特にあざけりの一言で関係を断ち切ろうとしている人たちに耳を傾けてもらうために、馴染みのある聖書の言葉を朗読したのではないでしょうか。
 そしてもう一つ理由があるとすれば、それは他でもなくヨエル書3章の内容にあるでしょう。先ほども触れましたけれども、この個所は神様がご自分の霊をすべての人に注がれるという預言ですが、キーワードは<すべての人に>です。そしてそれは、ペトロがいま語りかけている<すべての人たち>とリンクしています。つまりペトロは、今弟子たちに起こっている不思議なこと、皆さんが驚き、戸惑い、怪しんでいる出来事は、弟子たちに特別に起こったのではなく、皆さんすべてに起こることだと伝えています。関係を持つか断ち切るかという話どころか、自分自身に起こることだと伝えています。男と女の区別なく、若いとか老いているとかの区別もなく、自分の区別も関係なく、すべての人に神様は霊を注がれるのだと伝えています。その徴として示された<血と火と立ち込める煙>は、モーセがシナイ山の頂上で神様とまみえた時に現れた徴です。このときは神様が山の頂上に降り、モーセがそこに登って行きました。登ることが許されたのはモーセだけでした。モーセだけにカリスマが与えられたのでした。でも今や神様は聖霊として、すべての人のところに降って来られます。今やすべての人にカリスマが与えられ、すべての人がカリスマとされているのです。

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