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「邪悪なこの時代から救われよ」サムエル記下7:8~16/使徒言行録2:36~43 日本キリスト教団川之江教会 聖霊降臨節第3主日礼拝メッセージ 2023/6/11

 ペンテコステの日エルサレムには、世界中からそれぞれに異なる言葉を話す大勢のユダヤの人たちが集まっていました。聖霊に満たされたペトロたち十二人の使徒たちは、皆がそれぞれにわかる言葉で、離れている人たちにも聞こえるように声を張り上げて話しました。ではペトロたちは、何を話したのでしょうか。それは<あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった>ということでした。
 首謀者は、祭司長たちや律法学者たちでした。宗教儀礼を行い、聖書を教え、人々の信仰を導く指導者たちでした。そんな彼らは、主イエスが伝える神の国の福音が市井の人たちに広がっていくことに心を乱していました。特に主イエスは神殿や律法を臆せず批判していたために、彼らは恨みを募らせて殺意を抱いたのです。そして主イエスを逮捕しローマ総督ピラトに訴えて、死刑にさせたのでした。
 主イエスが伝える神の国の福音を喜んで受け入れていた市井の人たちも、祭司長や律法学者たちが主イエスの逮捕に向かうと手のひらを返し始めました。主イエスがエルサレムに来られた時「ホサナ、ホサナ」と歓迎したのに、ピラトの裁判にかけられると<十字架につけろ、十字架につけろ>と叫んだのです。救いの福音を告げる主イエスを見捨てて、権力におもねったのでした。
 けれども主イエスの物語は、死刑にされて終わりではありませんでした。むしろここからが始まりでした。神様が主イエスを復活させて、弟子たちの前に現れさせたのです。弟子たちとて、主イエスへの信頼を強く持ち続けて来れたわけではありませんでした。さすがに「イエスを十字架につけろ」という声に同調したりはしませんでしたけれども、自分も捕まりそうになったとき「私は仲間ではない。あんな人は知らない」と逃げてしまいました。主イエスが死刑に処せられると、恐くなって家の扉に鍵をかけて閉じ籠っていました。エルサレムを出て、故郷に帰ろうとした人もいました。そんな弟子たちの前に、復活の主イエスが現れなさった。そんな自分たちのために、神様は主イエスを復活させられた。<だから、イスラエルの(すべての人たち)は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった>、<わたしたちは皆、そのことの証人>だと使徒たちは告げたのです。

 <人々はこれを聞いて大いに心を打たれ>たと言います。何に心を打たれたのでしょうか。何が人々の心を打ったのでしょうか。
 まず挙げられるのは<あなたがたが殺した>というところでしょう。この指摘に対しては、反発する人も少なくなかったのではないかと思います。それは「私は殺していない。私は関係ない」という思いです。手を下したのは祭司長や律法学者など権力者たちであって私ではない、私は「十字架に架けろ」と叫んではいない、いやいやそもそも私はそのときエルサレムにはいなかった、等々...。でも、そのとき偶々そこに居なかっただけで、もし居合わせていたらどうしただろうか。直接手を下さなくても。死刑にせよと叫ばなかったとしても、殺されていくのをただ黙って見ていたのなら<あなたがたが殺した>と言われても仕方がないのではないか。そう、あの弟子たちのように・・・。そんな思いになったとき普通なら、そんな自分たちは罰を受けて然るべきです。神様がメシアとされる人に逆らったのだから、死の裁きを受けても仕方ないと覚悟すべきところです。でもそうではないと使徒たちは言うのです。神様は、あなたがたが殺したイエスを、あなたがたのメシア=救い主となさったというのです。これは、たしかに驚きです。「敵を愛せ」と言われた主イエス自身の言葉通りのことが起こったのです。
 二つめは、その「メシア」というものの理解が変えられたということです。それまでメシアは敵を退けて世を救い人々を救うのだから、力強く人々の上に君臨する者と思われていました。そのモデルは、このときからおよそ1000年前に君臨しイスラエルを一つの国にまとめ上げたダビデ王です。サムエル記によれば、ダビデ王は神様からこのように告げられていました<あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与え・・その王国を揺るぎないものとする。・・あなたの王座はとこしえに堅く据えられる>。そして実際ダビデ王は武勲を立てて敵を退け王としての名声を高めていった人でしたから、それがメシアの理想像として定着していったのでしょう。そのイメージからすれば、主イエスの人物像は真逆です。権力者に死刑に処せられ人々から嘲られる、およそメシアにそぐわないと思われるのに神様は<メシアとなさった>というのですから文字通りびっくり仰天、天を仰いで「まさか、そんな」と問い質してしまうほどの驚きです。でも神様がダビデに告げた先ほどの言葉をよく読み返すと、人としての力強さはどこにもありません。<敵をことごとく断>つのも<大いなる・・名声を与え>るのも<王国を揺るぎないものとする>のも、メシアではなく神様なのです。その神様が敵を力ずくで倒す人物ではなく、敵を愛せよと言われたイエスをメシアとなさったのです。

 さてこの話を<聞いて大いに心を打たれ>た人々は、使徒たちに<わたしたちはどうしたらよいのですか>と尋ねます。話を聞いて、心を打たれて、でもそれだけでは何もならないからです。「聞く力」を標榜し自慢している人が総理の座についていますけれども、それだけではどうにもなりません。「どうしたらよいか」と尋ねているのは、何かしなければならないと思っているということです。
 この問いにペトロは<悔い改めなさい>と言っています。悔い改めるとは、ただ後悔することではありません。これまでを<悔い>、これからを<改め>ることです。言い換えれば、生き方を変えるということです。続いてペトロは<イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい>と言っていますが、これを表面的に「洗礼を受けてクリスチャンになることだ」と捉えるのは間違っています。たとえ洗礼を受けても生き方が変わらなければ、何もなりません。逆に生き方が正しく変われば、何かの事情で洗礼を受けることがなくても罪は赦されていると思います。ただ、私たちが<十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった>という福音に<心を打たれ>生き方を変えようとするなら、<イエス・キリストの名によってバプテスマを受け>ることは、その決意の証しになると思います。それは逆に、既にバプテスマを受けた人にとっては、そのバプテスマが生き方を変える決意の証しだったことを改めて思い起こすことが求められているということになるのでしょう。
 では「正しく生き方を変える」とは、どういうふうに変えていくのでしょうか。ペトロはこのことについて、<邪悪なこの時代から救われなさい>と言っています。「自分は何も変わろうとせず、悪いことを時代のせいにする」というようなことがよく言われたりしますが、ペトロが言っていることはそういうことではありません。そもそもペトロの話は、主イエスは他でもない<あなたがたが十字架につけて殺した>のだということから始まっていました。それは私たち自身が<邪悪なこの時代>の一員だということです。ですから<邪悪なこの時代から救われ>るためには、私自身が邪悪な生き方から救われなければなりません。邪悪な時代に流されていたこれまでの生き方を<悔い>、これからの生き方を邪悪な時代の流れに抗って<改め>ていくことが求められるのです。そして、その生き方は神様が示して下さっています。それは神様が、私たちが殺した主イエスを私たちのメシアとなさったことです。神様は私たちと<共にいて>、敵を愛することによって<敵をことごとく断ち>、小さき者であるままで<大いなる者に並ぶ名声を与え>てくださるのです。

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