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「真理の霊と惑わしの霊を見分ける」創世記6:5~8/ヨハネの手紙一4:1~9 日本キリスト教団川之江教会 受難節第二主日礼拝メッセージ 2023/3/5

 たとえば誰かから言葉をかけられて、その人がその言葉通りの意味でそう言っているのか、あるいは裏に別の意図があるのにそれを隠して惑わそうとしているのか、それを見分けることは案外難しいものです。その人の思いが真理(まこと)の思いか惑わしの思いか、それがすぐにわかるのであれば、この世から詐欺というものがなくなってしまうことでしょう。でも残念ながら詐欺はなくならないばかりか、より巧妙になって私たちを脅かしています。詐欺というのは、なにも金銭的に関わることだけではありません。昨今また問題が表面化している宗教カルトもまた、同じ問題をはらんでいます。金銭を奪うか精神を奪うかという違いはあっても、人を惑わして間違った方へと導こうとしていることに違いはありません。それは真(まこと)の思いなのか、それとも惑わしの思いが働いているのか、私たちは見極める目を持たなければなりません。
 そういう問題は昔からあったようです。主イエスの死と復活の出来事から70年ほど経った頃、世代で言えば二世代ほど後のことくらいでしょうか。教会の指導者の一人だったヨハネが、彼の教会の信徒たちに宛てた手紙の中で<真理の霊と人を惑わす霊とを見分ける>方法について記しています。とても端的に記してあります<イエス・キリストが肉となって来られたということを公けに言い表す霊は、すべて神から出たものです>、逆に<イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません>。二世代ほど後ということですから、当時の教会には既に生前の主イエスを知っている人たちがほとんどいなくなっていました。それで主イエスを霊的な存在として捉えるあまり、イエスは実在した人物ではないと考える人たちが増えていたようです。そういうことが背景にあるので、ヨハネは<イエス・キリストが肉となって来られたということを公けに言い表す>か<言い表さないか>を問題にしているわけです。
 ただ「言い表すか言い表さないか」ということを、表面的に捉えてしまってはならないでしょう。口にするだけなら誰にでもできるからです。それにもし人を惑わす思いがそこに働いていたとしたら、その<言い表し>は逆に人を誤った道へと導こうとしているのかもしれないのです。また逆にたとえ口で言い表さなかったとしても、行動や生き様でイエスのことを表すこともあるでしょう。でもだからといってその思いが<神から出たもの>ではないと言い切ることもできません。大切なことは「言い表すか言い表さないか」ということを表面的に捉えることではなく、ヨハネが何を言おうとしているのかを理解することです。
 そもそも<イエス・キリストが肉となって来られた>とは、何を意味しているのでしょうか。一人の人間として実在したという、ただそれだけのことではないでしょう。これはヨハネも言っているように、主イエスによって<神の愛がわたしたちのうちに示され>たということです。精神的な教訓としてではなく、具体的に行動される一人の人の生き様として示されたということです。口にするだけの愛は論外として、行動で示される愛にもし惑わしの思いがあったとしたら、たいてい綻びが出るものです。たとえば「神様に愛されるために何々をしなければいけません」というふうに条件が付けられれば、人はその条件に苦しめられます。「何々をしなければ神様の愛ではなく罰を受けます」というふうに恐怖心を煽られたなら、その時点でもはやそこに愛はありません。そして愛のないところに、神様はおられません。<神は愛>そのものだからです。

 よく新約の神は愛の神様、旧約の神は裁きの神様と言われます。裁きには恐怖が付きまといますから、旧約の神様は恐ろしいという印象があります。まるで新約の神様と旧約の神様とは別の神様のようです。でもそれは、神様がお一人だということと矛盾してしまいます。そこで出てくるのが、愛のムチという考え方です。「神は愛なのだから、神様がされることはすべて愛に基づいているのです。苦しいことも恐怖も、神様の愛だと思って耐えて受け入れなさい」。でも、本当にそうなのでしょうか。
 旧約には「ノアの箱舟」という神話があります。「えっ神話なの?神様を信じている人は本当にあったことだと信じているんじゃないの?」と言われるかもしれません。たとえば実際に起こった町全体を崩壊させてしまうような洪水が話の元になっているかもしれませんが、物語自体は神話だと言っていいと思います。ただ神話だからと言って軽んじてはいけません。むしろ神話だからこそ、神様のことが純粋に語られているということもできるからです。歴史的事実が色濃く反映している例えば列王記や歴代誌などは、神様の御心と実際に起こったことの間に矛盾が生じたとき、それをうまく説明しよう/調整しようという思惑が入り込んでくることがあります。けれども神話には、そういう雑音は少なくて済みます。まったく純粋とは言えないまでも、当時の人たちが神様からどんなインスピレーションを受けたか、神様の御心をどのように受け止めたかということがストレートに記されていると言えるからです。
 さて「ノアの箱舟」の物語ですが、神様はなぜ大洪水を起こされたのでしょうか。一般的には神様の罰だとされています。神様が造られた地上には<人の悪が増し>人が<常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって>、<わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も>と言われているからです。罰ということは、その責任は人にあるということになります。人が<常に悪いことばかりを心に思い計っている>責任をとって、罰を受けたということになるからです。家畜や這うものや空の鳥は、その巻き添えになった形でなんとも気の毒です。
 でも洪水が神様の人に与えた罰だとすれば、おかしなところが幾つかあります。まず神様は悪が増した人に怒って、あるいはそんな人を諭そうとして「人を罰しよう」とか「罰を与えよう」とは言っておられません。そうではなくむしろ神様ご自身が<地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ>ています。
 次に神様は洪水の水が引くと空に虹をかけ、<地上のすべての生き物・・との間に>今後<肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない>という<永遠の契約>を結ばれています。人に責任があって罰を与えたのなら、人は神様の前で反省し悔い改めて更生を誓わなければならないと思うのですが、そういう手続きはありません。そればかりか神様の方から一方的に、もう<すべて滅ぼすことは決してない>と言われるのです。それでも人は、また悪が増すかもしれません。悪いことばかりを心に思い計り続けるかもしれません。実際人はそうあり続けてしまっているのですが、それでも神様はもうすべてを滅ぼさないことを<永遠の契約>として結ばれたのです。
 もし洪水が人の悪に対する罰だとしたら、その後の悪に対しても罰を与え続けなければ意味がないのではないでしょうか。もしもう罰は与えないと決められたのだとすれば、最初の罰には何の意味があったというのでしょうか。
 つまり、こういうことではないでしょうか。この物語は神様が人の責任を追及して罰を与える話ではなく、神様がご自分の責任を負ってやり直しをされる話なのではないでしょうか。造り主としての責任を負って、神様と人との関係を新しく造りかえられる話ではないのでしょうか。そのための虹の契約です。これからはすべてを滅ぼすことはない、この契約は言い換えれば「これからはもう後悔しない」という神様の宣言です。人の悪が増したとしても悪いことばかりを心に思い計っていたとしても二度と後悔したりせず、とことん人を愛し人と共にいてくださる愛と平和の関係を結んでくださったのです。

 <神に属する者>とは、愛と平和の関係に結ばれた者です。<神を知る人は>、愛と平和の関係づくりに<耳を傾けますが>、そうでない人は<耳を傾けません>。愛と平和の関係に結ばれない人は、罰を好み恐怖心によって人を支配することを求めるからです。これによって、私たちは<真理の霊と人を惑わす霊とを見分け>ていきたいと思います。そして私たち自身が<人を惑わす霊>に侵されないよう、<互いに愛し合>う関係を結んでいきたいと思います。

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