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「異なる声を聴く力」出エジプト記13:17~22/使徒言行録16:6~12 日本キリスト教団川之江教会 公現後第二主日礼拝メッセージ 2023/1/15

聖霊の働きって何ですか?

 教会では「聖霊の働き」とか「聖霊の導き」という言い方をよくします。ただ言葉にするだけではなくて、クリスチャンであれば実際に聖霊の働きを感じたり、聖霊の導きとしか思えないような体験をしたりすることもあるのだろうと思います。では聖霊の働きについて「それはどんなふうに働くのですか」とか「どうしてそれが聖霊の導きだとわかるのですか」とかいうふうに問われたら、なんと答えられるでしょうか。考えてみますと、なかなか難しい問いのように思います。どこか感覚的なところがあって、言葉でうまく説明することができません。うまく言葉になったとしても「どこか言い足りないなぁ」ともどかしく思うこともありますし、他の人が説明しているのを聞いても「なんか違うな」と思うこともあったりします。ですから感じ方は人それぞれなのかなとも思うのですが、だからといって「感じたときに、これだってわかりますよ」と言うのでは、せっかく質問してくれた人に誠実に答えているようにも思えません。果たして聖霊は、私たちにどんなふうに働くのでしょうか。どうして私たちはそれが聖霊の導きだとわかるのでしょうか。

「聖霊から禁じられた」

 使徒パウロが宣教旅行に出かけた時も、聖霊の働きがあったことが使徒言行録に記されています。今朝示されたのは、二回目の宣教旅行の出来事です。この旅行にあたって、パウロは明確な計画を立てていました。それは一回目の旅行で訪れた町すべてを、もう一度訪れることでした。
 そもそもパウロは、どうして宣教旅行に出かけたのでしょうか。それは待ち望んでいたキリストが来られたこと、そしてキリスト・イエスの福音の言葉を遠く離れて暮らすユダヤ人に伝えるためでした。なぜユダヤ人に伝えようとしたのか、それはキリストを待ち望んでいたのがユダヤ人だったからです。待ち望んでいた人たちに伝える、至極当然のことでした。週報に地図を載せておきましたけれども、オレンジ色の濃いところはユダヤ人が多く住んでいた地域、薄いところはあまり多くはなかったと言われています。一回目の旅行ではキリキア州、フリギア・ガラテヤ地方を宣教して回っていました。今で言うとトルコの南中央部あたりです。シリアのアンティオキアという町を拠点にしていたパウロは、そこから北上して前に訪れたキリキア州、フリギア・ガラテヤ地方の町々をもう一度訪ねていきました。前にパウロが主の福音の言葉を伝えた人たちの、その後の様子を見て回ったのです。町の人たちは、久しぶりに会うパウロを歓迎します。再会を喜び合い、パウロは町の人たちを激励したのでした。
 一回目の旅行で訪れた町をすべて回り終えたパウロは、アジア州に足を延ばすことにします。一回目の旅行では行かなかった所ですが、アジア州にもユダヤ人がたくさん住んでいたからです。ところが<アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた>というのです。聖霊がパウロに働かれた、とても重要な出来事だと思うのですけれども、その割にはあっさりと記されているように思います。

雲の柱が導いた時代があった

 パウロに、具体的に何が起こったのかはわかりません。これが旧約の時代だと、神様の働きかけは具体的です。出エジプトを導く神様は、<昼は雲の柱><夜は火の柱>で民を導きました。人々は柱が進んでいく方へ、導かれるままに進んでいったのでした。けれども新約の時代には、そういうあからさまな奇跡は既に起こらなくなっていたのでしょう。たとえば聖霊が雲を柱にしてアジア州に行こうとするパウロの前に立ちはだかった、という話ではないのだろうと思います。
 ではパウロに何が起こったのか、具体的にはわかりませんが「これは聖霊が導いておられる」とパウロに感じさせる何かが起こったのかもしれません。たとえば行く手を遮るような事故があったとか、向こうで何か事件が起こったという話を耳にしたとか、何が起こったわけではないけれども何か嫌な予感がするとか、そういう些細なことだったのかもしれません。アジア州行きを諦めなければいけない決定的な事情があったわけではないけれども、パウロには「これは聖霊が行くなと言われている」と感じさせる何かがあったということなのでしょう。
 パウロは北へ迂回してミシア地方の手前からビティニア州に入ろうとしますが、またもや<イエスの霊>がそれを許しませんでした。ちなみに<イエスの霊>とは聖霊のことです。違う言い方をしていますが、違うものではありません。さて具体的に何があったのかはともかくパウロはビティニア州に入るのを止めて、そのままミシア地方に入り海辺に近い<トロアス>という町に宿泊することにするのでした。その夜、パウロは夢を見ます。一人のマケドニア人が現れて、<マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください>とパウロに願う夢でした。地図を見ていただいたらお分かりのように、マケドニアは海を隔てた向こう側です。今でいえばヨーロッパ、民族も文化も違ういわば別世界です。それに思い出していただきたいのですが、キリストが来られたことを伝える相手は、それを待ち望んでいたユダヤ人です。海を渡ってマケドニアへ行くことなど、パウロの念頭にはなかったことだったのです。にもかかわらずパウロは朝が来るとすぐに、マケドニア行きの船に乗り込みました。パウロはこのとき、はっきりとわかったのです。「神様はユダヤ人にではなく、<マケドニア人に福音を告げ知らせる>ことを望んでおられる。そのために神様は<わたしたちを召されている>、そう<確信するに至った>とパウロは語っています。

感性に響く異なる声を聴き分ける

 日常の中で起こる何気ない出来事に、あるいは眠っている時に見る夢の中に、何かの意味を感じ取ることが私たちはあります。予感とか、虫の知らせとか、合理的に説明することは出来なくても、何らかのメッセージを受け取ることがあります。それはきっと、そういう能力を人間が持っているからでしょう。その能力は、神様から私たちへの賜物です。そして神様は、その能力を通して私たちに働きかけておられるのかもしれません。けれども私たちは合理主義にどっぷり浸かってしまって、そのような感性を鈍らせてしまっているように思います。大昔には雲の柱や火の柱のような目に見える奇跡を通して、神様は人間に働きかけられていました。でも今は私たちの感性に、聖霊の風をそっと吹きかけるように働いておられるのかもしれません。ですから私たちは日頃から、その感性を豊かにする必要があります。日常の出来事の中に現れる聖霊の働きをキャッチできるように、いつもアンテナを立てておくことが必要なのです。
 ただし感性に働いたもの、予感とか虫の知らせといったものがすべて聖霊の働きだというわけではありません。たとえば「悪魔のささやき」と呼ばれるものもあったりします。もしかしたら単なる思い過ごしかもしれません。アンテナが無数に飛び交う電波の中から必要な電波だけをキャッチするように、私たちは感性に響く様々な声から、神様の声を聴き分けなければなりません。ではどうすれば、神様の声を聴き分けることができるのでしょう。それには聖書に学ぶことです。聖書を通して神様の御心を知ることです。神様の御心を知ることで感性に響く様々な声から、神様の声を聴き分けることができるのです。
 でも聖書から神様の御心を学び知ることができるなら、それで十分な気がします。あとはそれに従って歩めばいいからです。その考え方に間違いはありません。たぶん神様も最初はそう思われたのでしょう。そしてそれを形にしたのが律法主義です。聖書には神様の御心はこうである、だから人はこう歩みなさいということが書かれてありますから、人はそれを学び知ってそれに従って生きなさいと言われていたのです。けれども人にはそれができませんでした。学び知ることをしても、それに従って生きることができなかったのです。そればかりでなく聖書の中の「こう歩みなさい」のところだけを取り出し、それを都合の良いように拡大解釈して、肝心の「御心はこうである」のところを置き去りにしてしまったのです。
 だから神様は主イエスをこの世に遣わして、「御心はこうである」の部分を改めて教えられたのです。そしてその後には聖霊を降して、その都度私たちを導いておられるのです。聖書に学ぶことと感性を豊かにすることは、車の両輪のようなものかもしれません。聖書の学びがなければ、私たちの感性は聖霊の働きを見分けることができません。逆に聖書をどれだけ学んでも、感性が聖霊の働きをキャッチしなければその学びは意味のないものになってしまいます。そして感性がキャッチした聖霊の働きは、私たちの勝手な思いとは別のものです。ときには私たちの勝手な思いと感性が対立することさえあるのです。
 パウロは、本当はアジア州に行きたかった。そこに当初の目的がありましたし、それこそが神様から自分に与えられた使命だと思っていたからです。でも感性は違うものを感じ取っていました。それが何か確信が持てないまま自分の思いではなく感性に従って進むうちに、考えもしなかったマケドニアへの使命が与えられたのです。そのときパウロは、自分を導いていたのは聖霊であったことを確信するに至ったのです。
 ですから感性を豊かにすることは、自分の思いと異なる声に耳を傾けることかもしれません。そして自分の思いと異なる感性が聖霊の働きであると確信できるように、聖書に学び続けたいと思います。

イエス・キリストの福音をより広くお伝えする教会の働きをお支え下さい。よろしくお願いいたします。