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「誰も自分で得るのではなく」ヘブライ人への手紙5:1~10 日本キリスト教団川之江教会 受難節第五主日礼拝メッセージ 2023/3/26

 イエス・キリストは、しばしば「王」に譬えられてきました。王は人々の上に立って国を治め、人々の間のトラブルを裁き、敵から自分たちを守ってくれる存在だからです。ただ実際には、そんな願ったり叶ったりの王ばかりではありません。権力を笠に着たり自分の利益だけを追い求めたりするばかりで、かえって人々を苦しめ平和な社会を壊してしまう王も少なくありませんでした。それでも主イエスの時代、ユダヤの人々は王としてのキリストを求めていました。それには二つの理由が挙げられます。その一つは、当時のユダヤはローマ帝国が支配していたからです。ですからユダヤの人々は、ローマ帝国の支配から独立することを望んでいたのです。
 でも、ちょっと待ってください。当時のユダヤには、王がいたはずです。そう、ヘロデ王です。ユダヤにはヘロデという王がいたにもかかわらず、それを差し置いて人々はユダヤの王を求めていました。なぜでしょうか。ここに二つめの理由があります。それは実はヘロデはユダヤ人ではなくイドマヤ人という外国人で、しかもローマ帝国を自分の権力の後ろ盾にしていたからです。ですからユダヤがローマの支配から独立するためには、ユダヤ人の王-それも過去に400年以上もの間ユダの国を統治し、イザヤがインマヌエルの王と預言したダビデ王の末裔でなければならないとユダヤの人々は考えていたのです。ちなみに主イエスが十字架にかけられた時、罪状書きの板には「ユダヤ人の王」と書かれていました。その意味は「勝手にユダヤ人の王と名乗った罪」ということではなく、「ローマが支配するユダヤにユダヤ人の王はいらない」という支配者側の宣言だったのだと思います。それは裏を返せば、それほど王としてのキリストへの期待が高かったということを示しているのではないでしょうか。

 ところでイエス・キリストは「王」以外にも、別の存在に譬えられることがあります。ヘブライ人への手紙では、キリストは<大祭司>に譬えられました。大祭司としてのキリストです。では大祭司とは、どんな存在なのでしょうか。
 王の代表格がダビデだとすれば、大祭司の代表格といえばアロンではないでしょうか。モーセのお兄さんで、モーセと共に出エジプトを導いた人です。シナイ山のふもとで、イスラエルの初代の大祭司として神様から任命されました。特別に聖所に入ることが許されて人々を代表して神様に礼拝し、人々のために執り成しをする権威が与えられたのです。以後の祭司職はアロンの末裔であるレビ人が後を継いでいくことも、このとき決められたのでした。
 ところがヘブライ人への手紙に登場する<メルキゼデク>という大祭司は出エジプトよりずっと昔アブラハムがまだ<アブラム>と呼ばれていたの時代の人で、しかもサレムという別の国の王だった人です。当時カナンの地には、小さな王国が乱立していました。なかでもエラムという国のケドルラオメルという王が一番強くて、九つの国を支配していました。あるときその中の五つの国が支配者ケドルラオメルに反旗を翻し、戦争となりました。数の上では反乱軍が上回りましたが、戦力的にはケドルラオメル率いる同盟軍に勝ることはできませんでした。反乱軍の一つソドムという国にはアブラムの甥ロトが住んでいたのですが、ロトもまた戦禍に巻き込まれ同盟軍の捕虜にされてしまうのです。その知らせを聞いたアブラムは、三百人余りの兵を率いてロト救出に向かいます。そしてケドルラオメル率いる同盟軍を<打ち破って>しまうのでした。勝利して戻って来たアブラムを、ソドムの王が出迎えます。そこに一緒にいたのが<サレムの王メルキゼデク>でした。サレムの国はこの戦争に加わっていなかったのですが、祭司でもあったメルキゼデクは<パンとぶどう酒>を携え<天地の造り主、いと高き神>を称えて<アブラムを祝福>します。そしてアブラムはそれに応えて、<すべての物の十分の一>を献げたのでした。

 実はメルキゼデクが登場するのは、このエピソードだけです。聖書の分量で言えばほんの4節、ヘブライ人の手紙が主イエスをメルキゼデクになぞらえなければ、もしかしたらその他大勢の王の一人として埋もれてしまっていた人なのではないかと思うほどです。ヘブライ人の手紙はなぜ大祭司の第一人者であるアロンではなく、メルキゼデクに着目したのでしょうか。そして彼を主イエスになぞらえたのでしょうか。
 まず、彼の名前に注目します。メルキ・ゼデクは「正義の王」という意味を持つ名前です。正義とはもちろん、人それぞれの正義ではなく神様の前での正しさです。そして彼の国<サレム>は、平和という意味の言葉です。私たちは「シャローム」という言葉で馴染んでいますが、訛りが違うだけで同じ言葉です。つまり<サレムの王メルキゼデク>とは「平和の王である正義の王」、埋もれさせるわけにはいかないほど大きな名前なのです。その名前が、主イエスのキリストとしての称号として相応しく思えたのでしょう。
 次に祭司としてのメルキゼデクに注目します。アロンはたしかに律法に定められたイスラエルの民レビ族の初代祭司ですが、メルキゼデクは聖書に登場する最初の祭司です。サレムという別の国の人ですが、<いと高き神の祭司>です。そもそもこの時代にイスラエルという国も民族共同体も存在していません。一人のヘブライ人を<大いなる国民>の祖として召された<天地の造り主、いと高き神>様が、サレムの王を祭司として召されたとしても何の不思議もありません。民族に捉えられることのない世界の神様が召された、律法に囚われない唯一無二の祭司、主イエスをなぞらえるに最適の人物と言えるでしょう。
 最後に注目したいのは、メルキゼデクは一人の人間だということです。<人間の中から選ばれ・・人々のために神に仕える職に任命され>た一人の人間だということです。神様に召された大祭司と言っても決して特別な人間なのではなく、ましてや突然アブラムの前に現れて祝福をして去って行くまるで天使なのでもなく、<自分自身も弱さを身にまとっている>一人の人間なのです。祭司の職務は、人々のために<罪のための供え物やいけにえを献げる>ことです。でも人間ですから<自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません>。それでも、いやだからこそ<迷っている人を思いやることができる>、その<光栄ある任務を・・神から召されて受け>た人、それがメルキゼデクという人です。ヘブライ人への手紙は、そんなメルキゼデクに主イエスをなぞらえました。それは紛れもなく、主イエスは一人の人間であったということです。普通の人として生きて、でも普通以上の苦難を受けて<激しい叫び声をあげ、涙を流し>た一人の人間だったのです。その中で主イエスは神様の<死から救う力>を信じて<祈りと願いとをささげ>られました。一人の人として<多くの苦しみ>を受けられたからこそ、<すべての人に対して、永遠の救いの源と>なられたのです。 

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