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いつも奇跡が起きていた2

うり二つ

こないだ三遊亭円丈の高座を見に行った。弟子が2席、そして円丈が2席である。ネタ帳から目を離さない、同じことをくり返す。弟子は盛んに師匠に拍手をしてくれ、そうしたら喜ぶと客に頼む始末である。
円丈の名を高からしめた「悲しみは埼玉に向けて」を初めて生で聞いた。さすが名作である。筋を間違おうが、同じシークエンスをくり返そうが、北千住を出て東武伊勢崎線に乗って差別の構造がいや増していく話の組み立てには、まったく揺るぎがなく、時代を先読みしたすごさを感じる。
作家いとうせいこう氏は、銀座あたりに貧富の境界線を引き、社会学者橋本健二氏は隅田川を国境と呼んでいる。むかしは山手線に乗っていると、上野あたりから明らかに雰囲気が違ってきた。中流層の分厚さを自慢していた日本で、まさか階級論がこれほどまかり通るとは信じられないことである。世の中がすっかり様子を変えるのに10年とかからない、というのがわが実感である。

円丈は自分を楽しませるためにネタを考え、落語をやる、といっている。これは奇をてらったわけではなく、ホリエモンも含めて大流行りの「自分の好きなことを仕事にしろ」のはしりである。自分が飽きない、面白いから、いつまでも、そしていつも気合いを入れて演じることができる。創作だから、丸ごと自分の創意でこしらえることができる。創作落語の醍醐味はそこにある。これほどやりがいのある商売もそうないのではないか。
お話をつくるということでは作家も同じであろう。自分が納得しない、面白がれない作品は世に出せない。深刻派であろうと軽薄派であろうと、それは真実であろう。

円丈と電車について、最近、思いがけない見聞をした。
夜の南武線下りでぼくの真向かいの席に空きができて、黒ずくめの背広の人が座った。軽く電気ショックでも受けたかのように、つつっと身を縮める感じが独特だ。長めの髪の毛を真ん中で分けて、痩せぎすで、口のまわりの剃り跡あおく、大きめの眼鏡をかけ、中にある目は鶏のそれのように剥き出しで、さらに出っ歯に近く……と書いてくれば円丈にうり二つの人物であることが分かるであろう。ほんとによく似ていた。
その円丈のとなりに丸々と太った、オレンジ色の柄を大きくあしらったワンピースの、相撲取りのような女性が座っている。借りてきた夫婦みたいにその細身と太身の釣り合いのいいこと。
そんな似合いの2人を乗せて、南武線は立川に向かい、どしどしとスピードを上げるのだった……。

電車で
 

電車でスマホをいじったり、音楽を聴いたりはできない。思いもかけないことが、そこで起きるからである。一度などは有楽町線で和風だしの匂いがしたので、横の方を見ると、離れた席で丸い白い容器で即席麺を食べている女性がいた。
やはり有楽町線で半袖のむきむき男が乗ってきた。真冬である。その客車にはぼく以外に乗客はいなかった。男は斜め前に座り、すぐにスマホを使い出した。と、思いきやこっちに立ってきて、ぼくの斜め上の窓ガラスを勢いよく閉めた。ほかも開いているので、当然、閉めるだろうと思ったが、なぜかそのまま元の位置に戻った。ぼくは、コロナなんだから元に戻せ、と言おうと思ったが、相手の図体を見て思いとどまった。
見るともなく見ると、下も薄いジャージで、かなり無理しているのが分かる。やがて小刻みに震え出した。と思う間もなく、男は立ち上がり、腕をジョギングの形に構えて、隣の客車までつっ走って行った。

これは山手線で見た光景だが、一度、二度ではない。たとえば、オバQに出てくるもじゃもじゃ頭の小池さんが、ぼくの目の前に座っているとする。驚くことに、3人、4人置いて、それとそっくりな人が座っていることがある。「ああ、あなた、あなたの分身がすぐそこ、3人置いたとこにいますよ!」とぼくは叫びたくなる。しかし、彼らはまったく世界の神秘には目もくれず、てんでの駅に降り立っていく。
おそらくぼく自身、何人か横にぼくのそっくりさんを置きながら、なにも気づかずに目的の駅に降りたりしているのだと思う。もったいないというか悔しいというか。だからといって、毎回、分身がいるかどうか確かめて座っているわけではない。自分のドッペルベンガーにまともに顔を合わせると、双方が命を落とすことになる、と聞いたことがあるが、本当だろうか。

ぼくは小学校3年で炭鉱まちからふつうの田園地帯のまちへ引っ越した。登校初日、先生から挨拶をするように言われた。型通りのことを言ったが、クラスはまったくの無反応である。せっかく緊張感をもって臨んだのに、拍子抜けがした。
あとで分かったのだが、ぼくとそっくりな子が転出し、そこにぼくが穴を埋めるように転入してきたので、彼らにすれば何の変化も起きなかったのに等しいらしい。ああ、同じやつが来た、という感じ、とだれかが言った。
世の中に自分とうり二つの人間は3人いるという。ぼくは小学3年でその1人を使っている。残りはあと2人。もうそれも全部、どこかで気づかないうちに使い切ってしまっているということはないだろうか。

いい映画とはリズム

うん十年、映画を見続けてきたが、いい映画とはなにかといまだに明快にいえない。「一すじ、二ヌケ、三動作」という言葉があるが、これは監督の目から見た言葉である。「すじ」はもちろんストーリーのこと、「ヌケ」は映像のよさ、「動作」は役者の演技である。そのなかでもストーリーを組み立てる脚本の出来でほぼ映画の出来は決まる、といわれる。骨組み、土台がしっかりしていないと、その上に載せるものは、ぐらぐらと安定性に欠ける。

脚本書きの七転八倒をめぐる逸話には事欠かないが、やくざ映画のように判で押したような展開が求められるときに、とくにその苦しみはいや増すことになる。数人で脚本を書くのは、そのマンネリを打開するのが狙いだが、いいアイデアが浮かばないと、旅館などに設けられた一室が博打場に変わることも珍しくない。不思議なのは、そういう映画会社指定の旅館がわざと歓楽街の中にあることである。ちゃんと宿題ができたら、そこに堂々と行ける、という餌のようなものなのか。
人間ひとりのもっているアイデアなど、たかが知れている。だから、よそからいだだくのは日常茶飯事である。どれもこれもパスティーシュが基本である。あの名作「東京物語」も「幸せの黄色いハンカチ」もアメリカの二流映画の換骨奪胎である。

さきの3条件には、音楽が抜けている。言い出しっぺのマキノ雅弘にそっちの興味がなかったのではないか。そもそもが無声映画で始まった人だ。ハリウッド映画では緊張の場面になるとジャジャーンと大きな音をさせて煽るようなことを平気でやるが、そういうとき却って黒澤明は悠長な音を響かせた。「野良犬」で拳銃を盗まれた若い刑事が、やっとこさ犯人にたどり着く。その追いつ追われつが、背丈を超える枯れた葦原のなかでカサカサと渇いた音を立てて繰り広げられる。息も絶え絶えの犯人が寝そべって隠れるそばを学校帰りの子供たちが通り過ぎる。これが動のなかの静、そしてまた追走劇が始まり、遠くでポロポロとピアノの音が聞こえてくる。また動と静の取り合わせである。黒澤の鋭敏な感性が光る。

監督の仕事は、どう脚本を演出するかである。そこでえてして脚本家と監督で、揉め事が起きる。余りにも本を監督が弄り回すので、裁判に持ち込んだ脚本家もいる。
傑作の誉れの高い「仁義なき戦い」は監督深作欣二、脚本笠原和夫である。しかし、笠原は自分の意図は表現されていない、と言っている。試写室からも途中で姿を消している。戦争を経験した人間の戦後の虚無感を描いていない、というわけである。

初期のころの黒澤作品では、黒澤のクレジットは「演出」となっている。言葉で書かれたものを絵に落とし込んでいくのが、監督の仕事である。その極まった姿が無声映画である。そこには絵しかないのである。誰だったか、無声映画時代にほぼ絵的なテクニックは開発され尽くしている、といっている。また黒澤の例を出すと、小川を逆さまになった下駄が流れてくるのを映して、月日の変化を表したり(三四郎)、足許に溜まる煙草の吸殻の量で、恋人を待つ時間の長さを表現している(素晴らしき日曜日)のがある。そういう絵的な修練のできた人が監督という仕事に就くのである。

ただ、ここにも難しい問題が浮上してくる。監督とカメラマンの関係である。カメラマンは一個の独立した仕事で、映像に関しては彼がディレクターである。もちろん監督は自分の演出の意図を十二分に表現してくれるカメラマンを選ぶわけだが、いつもすべて意向が一致するわけではない。
山田洋次監督と長年コンビを組んだカメラマン高羽哲夫との関係を書いた本がある(『キャメラマンという世界』渡辺浩)。何の映画だったか忘れたが、あるシーンを撮るのに両者の意見が合わなかった。最後は監督が折れたようだが、作品ができても監督は納得はしていなかったニュアンスで書かれている。いくつかテイクを撮って、その表現を見比べてみるという方法もあろうが、それもまたカメラマンとの関係で決まってくることだろう。
ベテランのカメラマンで、演技指導までやってしまうケースがあると聞いたことがある。溝口健二は絵はカメラマンに任せて口を出さなかったという。さらに、現場で脚本のダメだしをしきりにやるくせに、「書くのはそっちの仕事でしょ」とやり直しに一切手を出さなかったという。その代わり、台本が新たにできれば、それにふさわしい、あるいは超えた演出を施したわけである。
 
ようやくにして、ここから本題に入ることになる。映画制作には、演出のほかに編集という作業がある。撮影が終わって、最後の詰めの工程である。どうフィルムを切ってつなぐかで、全体のリズムが違ってくる。小津などは編集室にこもるのが大好きだったという。ハリウッドはその編集権をプロデューサーが握っている。無残な切り方をされて、後でディレクターズ版で復讐する監督もいる。
概して、リズムの悪い映画は、見ているのがつらい。あるいは、この映画、かったるいな、と思うとき、たいていリズムが悪いのである(大河のようなゆったりしたリズムでもいい。とにかく、その映画に合ったリズムでさえあればいいのである)。

たとえば、静と動、明と暗がかなり意識的に演出されているのが、「ゴッドファーザー」の冒頭部分である。最初は暗い部屋の中のシーンで、声だけが聞こえてくる。ドン・コルレオーネにもみ消し、恐喝、口利き、暴力の行使を願いに次から次と依頼人がやってくる。その日はコルネオーレの誕生会がメインで、配下のいかつい顔の組長が、暗記してきた祝いの口上を小さい声を出して復唱する様も映し出される。すべて彼の権勢のすごさを見せつける演出である。
その外では陽光がさんさんと降り注ぐなかで、コルネオーレの誕生パーティが繰り広げられている。シチリアの音楽が情感豊かに演奏される。白い帽子に白いドレスの女たち、そして黒いタキシードの男たちが群れをなして踊っている。ファミリーの構成員の簡単な紹介も行われる。コルネオーレが家族を第一と考える人間であることも、ここで分かるようになっている。一方で血で手を汚し、その一方で家族との紐帯を何よりも大事にする人々が、この映画の主人公である。
遅れてやってきた有名シンガーに若い女の子たちが声を上げて群がる。所望されて曲を披露するが、彼もまたゴッドファーザーに頼みごとがあってやってきたのである。彼も暗い執務室へと用談のために姿を消していく。
やっと闇の世界の話がすんで、コルネオーレが陽光のなかに姿を現すと、パーティはにぎやかさを増して、一段と華やいでいく。邸外の道路に訪問客のクルマがひしめき、そこで警察官とのいざこざも起こる。
このあと、有名シンガーが涙を流して頼み込んできた一件のために、ファミリーの長男、といっても唯一血のつながっていない冷静沈着な男がハリウッドに乗り込んでいく。音楽は賑やかなラグタイムへと変わっている。交渉がうまくいかず、その結果の惨劇へと移る際に、この映画のテーマソングがごくゆっくりとしたテンポで奏でられ、朝まだきの薄青い部屋のなかに白いベッドをなめるようにカメラが回り、誰かそこに眠る人間の足許から首に向かってたどっていく……何度見てもため息が出てくる。

ほかにも語りたい映画は山とある。最近も、デンゼル・ワシントンの「イコライザー」の冒頭30分ほどの出来の良さに感心した。もう数回見ているが、やはり静と動、日常と非日常が絶妙に塩梅されている。その抑えに抑えた演出が、とんでもない映像に向かってタメを作っているのである。やはりいい映画の条件として、リズムを挙げるのは、決して不当ではないだろうと思うが、いかがだろうか。 

雷蔵好み

小学校に上がるまえから映画を観はじめた。小さな子でも、雪が積もると映画館のトレイの窓から入れるようになる。映画がはねて外に出るときは、大人の陰に隠れるのである。
月光仮面が八の形に割れた勝鬨橋のような橋にバイクで突っ込んで、八の字の右辺に飛び移る背景に三日月がかかっていた。きれいだなぁと思った。あるいは、腰元をそばに侍らせたお殿様が、やや離れて立てられた扇を目指して自分の扇を投じる。見事当たれば腰元が一枚ずつ着ている物を脱いでいく。幼いなりに際どいものを見た感じがあった。

主演ではないが、渋い声の月形龍之介が好きで、後年、テレビで黄門様をやったときは、裏切りのようなものを感じた。映画でこそ映える役者さんだったと思うからである。むかしから脇役に目がいくタイプで、田中春男、藤原鎌足、左卜伝、大泉滉、多々良純、西村晃、伊藤雄之助……など一度見たら忘れられない人たちがいた。

健さんはテレビとは縁薄く、スクリーンの人として人生を終えた。健さんは喜劇から始まった人だ。のちの奥さん、江利ちえみの相手役などやっていた。それがもろ肌脱いで、汗で上半身を光らせ、圧政を加える相手の組に殴り込みをかける男になるなど、夢想もしなかった。白黒で見た「網走番外地」第1作目はテーマソングともども、強く子ども心に焼き付いた。あの館内に大きく響く声が魅力的だった。ぼくは、酒(きす)ひけ、酒ひけ、酒くれて、どうせおいらの行く先は、網走番外地、とうたうガキだった。後年、学生たちがスクリーンの健さんに声をかけると知って、なんと幼稚な、と思ったものである。

うちで映画を見るのは、ぼくとおふくろだけだった。おふくろは病院の賄いをやっていて、そこに時間になると迎えに行き、二人で映画館に向かった。
結局、おふくろの選んだ映画を見ていたことになる。市川雷蔵がおふくろの好みだったのではないか。ちょっとした濡れ場のある眠狂四郎シリーズも見ていることからも、それが分かる。小さな子を連れて、そのシリーズはないからである。危ないシーンになると、目をつむるように言われた。雷蔵もまた声のいい役者さんだった。
怖かったのは「忍びの者」や「中野学校」のシリーズである。雷蔵は侍からスパイまで、独特な暗さで演じた。森の中での忍者同士の決闘、えいっと両者が飛んで空中で交差し、それぞれ反対側に着地する。一人が脚を切断されていて、のたうち回る。それが溜まらなく怖かった。
普段着の雷蔵は、そばを通っても気づかないほど、普通の人だったそうだ。演説する社会党党首浅沼稲次郎を壇上で刺殺した山口二矢(おとや)の短刀の構えを見て、自分の型を使ったのではないか、と強く自省したのが雷蔵である。

映画の帰りに決まって寄るのが、駅前のラーメン屋さんだった。しな竹に薄いチャーシュー、丸いギアのような鳴門、そしてほうれん草がのった支那そばを二人で食べるのだが、思い出すのはどういうわけか冬のシーンばかり。とくに映画館からお店までの20分は冬となれば特別な道行きで、熱いラーメンのことばかり考えて歩いたのが、影響しているのかもしれない。あれは本当においしかった。
親戚の家に泊まりに行って、何が食べたい? と聞かれて、「ラーメン」と答えたところ「安上がりな子だね」と言われた。そうかぼくは、そういう食べ物をおいしいと思って食べていたのか、と思ったことがある。
でも、映画もラーメンもぼくの思い出のなかで特別な位置にいる。齢をとりラーメンのポジションはかなり低下したが、映画のそれは相変わらず高い。母親が雷蔵好みでなかったら、ぼくの映画好きもほどほどのものに終わっていたかもしれない。

金魚と鯉

小津安二郎の作品に「早春」というのがある。56年の作品で珍しく不倫を扱っている。妻帯者が池辺良、それにモーションをかける(死語か?)のが岸恵子、彼女のあだ名がキンギョである。
小津は岸のキャラクターに惚れて、自分の映画が変わるかもしれない、という予感を抱いたと言われる。ところが、数本撮って彼女はパリへ移り住み、小津の目算が狂った。ヒッチ・コックもグレース・ケリーに夢を抱いたが、早々と王妃として旅立っていった。
学生のころにたびたび奈良を訪ねたが、山辺の道を歩いていて、金魚を育てる大きな生け簀を見てびっくりしたことがあった。地面すれすれに水を張り、それが鏡のように光っていた。地震でも来たら大変だろうにと思ったのを覚えている。
かつて新潟が地震に襲われて錦鯉の名産地が壊滅的な打撃を受けたというニュースを見て、はしなくもその奈良の養魚地の光景を思い浮かべたものである。

実家では金魚も飼っていたが、大きな鯉も飼っていた。小学校の3年のころだったか、朝、起きると水槽に大きな黒い鯉が2尾、ゆったりと泳いでいた。それは父親が夜陰に忍んで盗み出してきたものだった。弟の説では、父親は盗んだ鯉を食べたこともあるというから、何度もその味を尋ねたが、表情を消して返事をしなかった。
水泡のなかを鯉が悠然と泳ぐ姿は、いつまでも見飽きない。後年、今村昌平の映画「エロ事師」で水槽でくねくねと泳ぐ、まるでバラクーダのような鯉が出てきたときには、まざまざとわが家の鯉のことを思い出した。映像は俯瞰気味に撮っていて、大きな鯉の図体が前景となって、その向こうで展開される主人公夫婦の秘事が隠される仕組みになっている。ポルノ映画などで、よくそういった場面で前景の花瓶や壺が邪魔になることがあるが、それと同じである。

あるとき、麹町の通りを皇居に向かって歩いていて、小さなお茶屋の店先に10センチぐらいの大きさの陶器の鯉を見かけた。有田焼と書いてある。緑の水玉模様が描かれたガラス器に水を張り、そのなかに背と尻尾の付け根に明るい赤が彩色されたそれが入れられていた。
その一匹を買い求め、あとでもあちこちで模様も大きさも違うのを見つけて、いま仕事机の上には6尾が泳いでいる。人にも上げているから、結構な数になる。
布地からいろいろなグッズを作っている京都の古いお店から、2枚ののれんを買ってきた。赤と黒で見事な鯉が描かれいるもので、それをぼくは本棚の本隠しに使っている。

いまの住まいの数駅先のデパートに金魚屋がある。鯉もいる。その赤と黒の単純な配色が、ぼくを惹きつける。それがうねうねと動くからよけいに好ましい。何時間でも見とれていることができる。

寒風沢島へ

だいぶ前の話である。やっと仕事の空きができたので、急いで旅に出た。人から聞いた塩釜の先の島のことが気になっていたのだが、たまたま買い置いてあった本を読むと、そこにその島のことが書かれていたので、ここだと胸が騒いだのである。
その島の名は寒風沢島である。塩釜の前の浦戸湾に浮かぶ島で、ほかに桂島などあわせて3島がある。寒風沢島までは船で40分で、それぞれの島のあいだはほぼ8分間隔である。ぼくは牡蠣の季節だから、堪能できるだろうと期待に胸が膨らんだ。
台風が来る、という予報が心配だ。仙台に一泊して、朝早くに塩釜へ向かうが、もう小雨が降っている。20分ほで到着。タクシーですぐに塩釜市場へ向かった。あなごとまぐろが、そこらじゅうにある。牡蠣は? 店の人に訊くと、1週間ばかり早いとのこと。ええっ!? ぼくはいったい何しに来たのだろう。
タクシーで船着き場へ向かう。ビールと笹蒲を買い、乗船準備は整った。時間になると、10人ほどの客が乗り込んだ。時刻表を見ると、日に10本ばかり出ていて、なかなか便利がいい。長崎の先の五島などの島ではこうはいかない。生活臭のする船便である。
民宿のおばさんらしき人が船着き場でぼくを待っていた。親切そうだ。歩いて3分で宿に着き、2階の部屋に案内してくれる。まだ時間は15時、横になってどうしようか、と考える。そうだ、釣りだ、釣り。もう何十年もやっていないが、むかし取った杵柄だ、釣れないことはないだろうと、竿を借りることにした。
まだぱらぱらと雨が来るが、思ったほど強くならずにすみそうだ。突堤を歩いて2分も歩けば、小舟や浮き藻の間に糸を垂れて釣りができる。えぃやっ!と糸を投げ、巻き上げようとすると、どういうわけか絡まってしまった。宿に戻り別のに取り替えて、また挑戦する。
すぐに当たりがある。コツンと来て、やや間があってまたコツンと来て、ぐっと引っ張る。この感じは、田舎でやった金鮒の感触と同じである。最初の当たりで竿を上げると、食いが浅くてバラすことになる。これは幸先がいいぞ、と思って糸を垂れると、5人ほど、釣りの格好をしたおじさん連が寄ってきて、「釣れるかい?」と訊いてくる。ええ、すぐに1匹、と答えると、5人の顔がぱっと光ったように見えた。彼らの言によると、ぼくの釣ったのはハヤであるらしい。
釣りは傍から見れば悠長な遊びだが、本人は忙しいぐらいにポイントを変えたり、餌を付け直したりしている。ぼくの場合も、最初のあたりのあとは小さなカニが釣れただけで、音無しの構えになったのがつまらなく、さっと位置を変えた。その決断が吉と出るのか凶と出るのかが、釣りの面白さであろう。ぼくの場合は吉と出て、都合10匹は釣ったろうか。いちばん釣れたのは突堤の鼻のところで、うしろでは民放ラジオを流しながら中年夫婦が漁の網を直していた。のんびりとけだるい雰囲気が背後から忍び寄る。そんななかで、本人はどきどきしながらハヤを釣っている。
空がどんよりと曇って、雨が来そうな気配が濃厚になってきたのと、とんと魚の当たりもなくなったこともあって戦線を閉じることにした。

夜、1階の大広間で一人の食事となって、ひと皿ハヤの素揚げが山盛りで出てきた。一匹食べたら、もうあとが続かなかった。味が淡泊どころか、しないのだ。逸る心でものを得て、結果、こういうみじめな結果に終わるのはつねにあることで、別に嫌いなわけではないから、落ち込まない。
部屋に戻ってテレビをつけてぼんやりしていると、誰か隣に人が来たような気配だ。早々に床に入って寝ることにした。翌朝、もうその人はいなくなったあとで、民宿のおかみさんが言うには、坊さんのいない寺へときおり様子見にやってくる坊様だという。そういえば、五島列島には神父のいない教会を訪ねるパードレがいたことを思い出す。
薄く霧がたちこめるなかに、墨染めの人が後ろ姿を消していくのは、風情のあることだと思いながら、目の前のお膳に食らいついた。

牛丼考

牛丼にはいくつか特別な思い出がある。もちろん手繰っていけばカレーだってラーメンだって思い出すことは多いが、牛丼は最後発だけに言うべきこともあるのである。
牛丼の吉野家は東京・築地が発祥だとテレビCMでやっていたが、どういうわけか以前からそのことは知っていた。忙しい魚市場のお兄さん方がかっ込むにはちょうどいいし、腹のこなれもよさそうだ。何しろ肉だから、力がつきそうだ。卵を割り入れれば、するすると食べやすい。
牛丼の味は、砂糖と醤油、それにだしである。家で作ることもできるが、わざわざ作るようなものでもない。すき焼きをやって、残ったものを翌日にでも丼にすれば牛丼である。
それでも牛丼が何か特別に東京的な感じがしたのは、後年、中島みゆきの歌を聴くようになって、その歌詞に「夜の吉野家では……」というのがあったからである。この歌を聴くたびに、そういえば昔、池袋で飲んでは仕上げに牛丼を食べるのが好きな奴がいたな、と思い出すのである。

ぼくは大学に入るまで肉が食べられず(北海道なのでジンギスカンは別である)、親が工夫してカレーなどにひき肉を入れても、すぐに反応して戻してしまうので、うちのカレーはいつの間にかシーフードになった。
ところが、大学に入り寮の先輩に連れられて朝鮮の夫婦のやっているホルモン焼き屋へ連れていかれたのがきっかけで、肉嫌いがほぼなくなった。そのとき食べたのはきっとホルモンかミノではなかったかと思う。あとで先輩に聞くと「豚の内臓だ」と言うので、なあーんだ内蔵か、内蔵が食べられるのに肉が食べられないわけがないと思ったのである。
今でも少し苦手意識が残るのはニワトリで、もともと山の中の親戚の家でそれが絞められるのを見てから始まったものなので、原点というのはなかなかしぶとく居座るものである。

肉ついでに言うと、北海道にはすき焼きを食べる習慣がなく、初めて食べたのは大学の1年の夏のことである。寮の委員会に入っていたので、東京に学費値上げ反対のデモにやってきた。文部省に押しかけたあと、日比谷公園に集まり気勢を上げ、散会した。もう日暮れ時だったのではないだろうか。
仲間のカンパで来ているので、贅沢はできない。
一緒に行った友達が言い出したのか、あるいは上京前にそういう話になっていたのか、彼の実家がある埼玉の熊谷に寄った。その日の夕食が、初めてのすき焼きだった。
知らぬ家にお邪魔し、友人の3人のきれいなお姉さんを前にして、妙に緊張したのを覚えている。そのプロセスのなかで出てきたすき焼きである。食べ方など知らないから、当然慎重になる。会話が振られてくるが、それに付き合っている余裕がない。目の前に卵が出てきても、それが何するものなのか分からない。しゃぶしゃぶの食べ方が分からなかったという人がいるが、ぼくには信じられない。あれは理屈通りに食べればいいのである。ところが、すき焼きの卵はにわかには解決がつかないものだ。ぼくは初めての西洋料理フルコースのように、そっと周りの人のやることを見て、一拍も二拍も遅れ、それでいていかにもそのマナーは知っているぞという鷹揚さを装った。疲れるんだ、これが。

後年、「本膳」という落語を聞いたときに、その熊谷の一夜のことを思い出した。もの知りの大家に付いていれば安心と、店子がぞろぞろと格式張った宴席に並ぶ。大家がしくじっても彼らにはその真偽が分からない。大家が箸をすべらせて芋を転がせば、同じようにそれをやる。ミスを次々とまねるそのおかしさを狙った噺だが、ぼくには到底笑えない……。

さて、本題は牛丼である。初めて食べたのは28歳ぐらいの時。先に書いたように、会社の同僚の牛丼好きに付き合って、酒のあとは必ずと言っていいほど吉野家に寄るのが恒例だった。ほとんど満腹の状態で食べたのと、睡眠不足が絡んで、しかもしつこい甘さに懲りて、食べ切れたことがない。それ以後も、牛丼は付き合いで食べるもので、自分から進んでという気分にはなれなかった。
それがいつだったか、吉野家倒産騒ぎがあった。道産米を優先的に使っていて、影響が心配される、とニュースが流れた。北海道のコメは長く“猫またぎ”といわれてきた。まずくて猫もまたいで通る、という命名である。これはきっと北海道の人間が自虐的に付けたものではないかと、ぼくは推測している。そういう傾向が道産子にはあるからである。
ぼくは吉野家に何だか今まで不義理をしてきた気分になってきた。三島由紀夫が死んだときに、たとえ作り話(小説のこと)でも真剣に読まないといけない、と反省したのと感じは似ている。
その後、吉野家は再建もうまくいき、デフレ時代の寵児のような扱いをされるようになって、ほっと胸をなでおろしたが、その後も、景気の上下に対応が難しいらしい。あの会社、なんだか他人事でないのが妙である。

脳味噌と脊髄


事件(事故?)発覚の数日前に、五反田南口の飲み屋街を入ってすぐ左の路地の、いかにも古い感じの居酒屋風の店に入った。五反田の駅には何度か来ているが、通り過ぎるだけで、この界隈のいかがわしさはまた格別である。いまやこのレベルを東京で探すのは難しいのではないか。
かつて弟と北陸を旅行し、富山で一泊したおりに夜飲むところを探したが、なかなか見つからない。つい知らない路地にまぎれこんだら、そこはうらぶれた飲み屋街で、おまけに絵に描いたようなポルノ映画館が店々に挟まれてそこにあった。どういうわけか日曜なのに店は全部しまっていて、映画館の明かりだけが調子はずれに赤かった。

五反田はそのうらぶれた路地裏を思い出させた。
薄暗い、というか手探りするように暗い店に入り、カウンターに並んだ先客の背中を横になりながら通り、突き当たりで2階に上がる。その階段も急で、まるで闇の中を宇宙遊泳しているような気分になってくる。きっと階段が長ければ、宇宙酔いになる。
2階はさらにぼーっと暗く、テーブル3席の先にある窓が開け放たれて、赤い花と濃い緑の植物(ゼラニウム?)が窓辺を飾っている。外を見下ろすと、路地をはさんですぐそこに蔦のからまったフランス料理店がある。窓から白い布のかかったテーブルが見える。なんとなく草臥れて太った中年女(きっと岡本かの子のイメージである)がビーフシチューでも食べているような光景が頭に浮かんだが、店には誰もいない。映画にでも出てきそうなアングルとその店の様子である。

予約席に座って、品書きを見ると、カルビ焼きがあったり、テール雑炊があったりで、ちょっと変わっている。1杯2千円の焼酎がある。今日は実はそれがお目当てだったのだ。しばらくすると、この店に親子2代で通っているという知り合いが、さっきの狭い階段から急に首を出した。やあやあと挨拶を交わし、さっそく注文を始める。
どれもうまい。ついかっこんでしまい、自分のあさましさがうとましい。
お目当ての焼酎には、正直驚いた。ぼくは焼酎は口元に持ってきたときの匂いが邪魔だし、飲んでるあいだそのことが気になって、無理をしている感じがあるのが嫌だ。ところがそれは実に重厚、芳醇、典雅……開高健のように修飾の嵐といきたいが、語彙が続かない。
豊かさがありながら、どこか金属的な冷たさがある。舌にそれが残るのである。板ガムを巻いたアルミ箔を囓ったときのような感触が残るのである。知り合いはちょっと口をつけるだけで、どうぞと私に勧める。そう強いほうでもないのに、私を誘った行きがかり上、飲まざるをえない、といった感じなのかもしれない。
やがてそう飲んでもいないのに、首をがっくり折って、酔っ払った風情である。口も回らなくなった。時折は意識が戻るのか、大声で私のことを「**先生」と勘違いな呼び方をするのが神経に障る。
突然、立ち上がって、たぶんトイレに行ったと思われるが、なかなか帰ってこない。階下で大きな声がするが、もしかしたらそれが彼の声かもしれない。しばらく経って戻ってきたのを見ると、酔いが多少は覚めたのか、にこにこと笑っている。これは何か企んだなと思ったので、黙って理由を聞かずにいた。
案の定、数分後に奇妙な料理が二つ運ばれてきた。ひとつは黄土色の海綿状のものにミルクのようなものがかけてある。見るからにねっとりした様子である。もうひとつは、1センチぐらいの太さの、やや丸い筒のようなもので、長さは5センチぐらい、きれいな白色をしている。チョーク、そう白墨を思ってもらえば間違いない。
聞けば牛の脳味噌と脊髄だという。
それの刺身で、彼はいかにも自慢顔である。店の女将に頼んで、特別に出してもらったという。彼は私がいかもの食いであると勘違いしているふしがある。確かに檀太郎を尊敬し、嵐山光三郎を軽蔑している。ふたりが東南アジアを食べ歩くテレビ番組があって、檀はとにかく何でも食べる。ゴキブリのようなものもすいすい食べる。嵐山はその反対で、見かけに似合わず臆病で、たいていのものに箸をつけない。私は檀さんの勇気に感動し、食を云々するものは、かくのごとくでなければうそだ、と思い、人にも飽きもせずその話をした。
彼はそれを真に受けてしまっているようだ。確かに夏場に香港の路上で幾種類もの貝を調理してもらい、実においしく堪能したが、連れの人間はホテルに帰ってから突然の悪寒に襲われたが、私は大丈夫だったことはある。しかし、中国料理の鶏の足先を甘く、しかも香草たっぷりに煮込んだ料理は、1度目は嘔吐しかかり、2度目は囓ることは囓ったが味わう前に吐き出し、3度目は口に入れた途端、やはり無理だと観念した。そんな柔な人間をつかまえていかもの食いはないだろう。

「この上の白いのは脳漿かな」と言うと、知人は嫌な顔をした。私は日の本に恐いものなしといった様子でまず脳味噌を食べた。ひんやり冷えていて、おいしい。もうひと箸。やはりおいしい。次に脊髄、むにゅっとした感覚は今まで味わったことのないものだ。甘くした酢に漬けて食べる。おいしい。もうひと箸。やはりおいしい。
こういうゲテモノをおいしくいただくというのは、実に優雅なことである。嫌々食べたり、大騒ぎして食べたのでは、なにか違うのである。北千住で犬鍋を食べたときも、ごく自然に食べることを心がけた。
我らふたり、いや少なくとも私は、夢見心地で店を出た。
その数日後、新聞に狂牛病の記事が踊った。脳味噌、脊髄、特に危険とある。いまさら言われてもなぁと嘆息を繰り返した。

ディスコミュニケーション


友人にひとり、酔っぱらうと、話の筋を追うのが難しくなるやつがいる。思い浮かんだことをすぐ口にするので、脈絡がつかめない。素面でもそういうことがあるのに、酔っているから、余計に支離滅裂になる。そいつが卑猥な言葉を大声で連呼するようになると最終段階で、急いで電車に乗せて厄介払いしないと、とんでもないことになる。これが毎回繰り返されるやつのパターンである。

こないだ赤羽の小さなスナックに入った。これが2度目である。おそらく2坪とない店で、カウンタ―席に5人も座ると一杯で、2階のトレイに行くのに、一旦外に出ないと、用を足しに行けないほど狭い。
先客がいて、ぼくが中に入ると、すぐに話しかけてきた。前に会ったような気もするが、確かではない。彼の左隣に座る。ママさんに近くで仕入れたせんべい2袋を渡す。「ママは今日は休み」なんだ違う女か。だいぶ太って、砕けたな、と思ったが、別人だったのだ。
ウィスキーの炭酸割りを飲みながら、前方上方に掛けられた大きなテレビ画面に見入る。さっきの男がしきりに話しかけてくる。相槌をうつのだが、じつは言っていることがひとつも分からない。しゃれた帽子をかぶって、草色のジャンパーを着て、ふつうの兄ちゃんに見える。言葉は明瞭だが、つなぎがバラバラなので、意味をつかめない。いっそ発音が悪い方が、内容は取れるかもしれない。それを再現できればいいが、そういうレベルの話ではない。シュールレアリスムの自動筆記よりまだ悪い。

テレビでは2回目の米朝会談の決裂を扱っていたが、それについて意見を言っているらしいが、もちろん意味が取れない。なぜ、どうしてこんなことがありえるのか? 疑問が次々に湧いてくる。彼は大した飲んでもいないのに(手元を見るとビールの小瓶が見える)、10分もするとトイレに立つから、そのたびにドアを開けて外に出ないといけない。
 
トイレから戻ってくると、また速射砲のように小止みなく話し続ける。間を空けるということを恐れているのかもしれない。よく会社は大変だ、という言葉をはさむ。代理ママ(代理出産ではない)が、「リョウちゃん、くっちゃべってばかりいないで飲みなよ」とカウンターの脇から手を回して小瓶をつかみ、リョウちゃんに注いでいる。「いっつも話ばかりなんだから」テレビは今度、北大恵迪(けいてき)寮の若者特集をやっている。男は即座にそれについて何かを言い、また会社は大変だ、と得意のフレーズを入れる。代理ママによると男は調理師らしく、「リョウちゃんは独立しないほうがいいよ」なんて言っている。リョウちゃんには端っからその気はないらしいが、彼にはその話題を数秒ともたせることができない。北大恵迪寮の若者たちの生態に意識を集中しようとすると、首の右側にリョウちゃんの言葉が散弾のように当たる。

リョウちゃんがまたトイレに立ったすきに、代理ママに「全然、言ってることが分からない」「そうなんです」とすまなそうな顔をするが、絶対に彼女のせいではない。リョウちゃんが戻ってくるまえに、さっさと勘定をすませてしまった。もうぼくの耳は限界を超えている。代理ママに「いつも大変でしょ」と言うと、「いやもう慣れっこだから」と達観したような言葉が返ってきた。なにかぼくは赤羽のホスピタリティの極北を見たような感じがしたのである。

時間がない


映画はどんなつまらないものでも最後まで見る、というのが映画好きの倫理観みたいなものだ。ところがここ最近、途中で映画館を出てしまうことが重なった。大評判の「カメラを止めるな!」も30分ともたなかった。「サスペリア」の新作も同じ。「song to song」は20分で諦めたが、ナタリー・ポートマン見たさに途中退場は我慢をした。
別に映画批評をやりたいのではなく、じつはもう堪え性のなくなった齢になった、といいたいのである。先は短い、と思うと、無駄なことに時間を使いたくないのである。その無駄の中身を定義するのは意外と難しいが、たとえばベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』という本を最後まで読むかどうか。かつてであれば、きっと読み通しただろうと思う。それなりに手ごたえのある本だからである。しかし、書いてあることはほぼ分からない。だけど、なんとなく面白い感じが分かるのである。詩を読むときにも、同じようなことがある。面白いけど、意味は分からないということがあるのである。それは絵画でも、映画にもあることではないだろうか。
哲学書でそう感じることは珍しいことなので、できれば読み通したいが、ではぼくはこれを読んで、どうなりたい、と思っているのか。より深く考えるようになりたいのか、あるいは哲学の素養を身に着けたいのか、あるいは誰かに話して「すごい」とでも言われたいのか。これがむかしであれば、そんなこと一切考えずに、その読書に集中したはずである。生きる時間が限られてくると、「一見無駄に見えること」に余念なしに立ち向かうことが難しくなるのである。
 
よく無駄の効用なんぞというが、その言葉はわれわれには意味をなさない。では、実用だけしかやらないのかといえば、そういうことはない。仲間と飲んだくれ、一人で飲んだくれること、たびたびである。春の野菜を買って、うるめは湯がいて酢味噌に、菜の花も湯がいてマヨネーズとすりごまと酢で和え、ふきのとうは天ぷらにする。そういうことは無駄な時間のようには思えない。なぜベンヤミンは無駄で、春の野菜は無駄ではないのか。こないだ、何回も読み差してはまたトライを重ねて、もう何十年にもなるキルケゴール『死に至る病』を読み通すことができた。小躍りするような喜びがあった。しかし、なぜそのキルケゴールを無駄の籠に放り込まなかったのか。
 
奈良は学生時代から仏閣と仏像を見に、何度も行っている。珍しく、気まぐれに映画を観た。旅行先で映画を観るのは、特別な感じがある。それは封切りではなかったと思うのだが、若者たちを描いたういういしい感覚の映画だった。途中から、ああもう取り返しがつかないんだ、という思いが胸を押し上げてくる。あの若者たちのように恋をし、悩み、ぶつかり合い、涙する激しさをもう取り戻すことができないという感慨である。ぼくはそのとき50歳ぐらいだったと思うが、初老の域に入ろうという頃である。突然の激しい感傷に戸惑ったことを覚えている。先日、77歳にして、このまま死んでいくのはいやだ、恋をしよう! と思い立った女性にお会いしたが、おそらく彼女に急迫したものは、ぼくが奈良で襲われた感情と同一のものだったろうと思われる。取り返しがつかない! 何かできることはないか? というわけである。

年寄りは気が短くなるというが、あれは性格もあろうが、残された時間が少ないことからくる焦りがあるからではないか。感情のコントロールが利かなくなるともいうが、もう一々感情などを制御する気になれない、というのが正直なところないか。では、老人たちは一体残された、限られた時間に何をしようとしているのか。じつはそれが見えないから、よけいに苛立たしく、悲しいのではないか。

華厳経ではすみれ一草に世界が宿るそうだ。一は二を前提にして成り立ち、二は三を前提にしている。一つのものが単独であることは自明でも、それは他との関連で独立なのだ、と考える。融通無碍というのは、自他を行き来することをいうらしい。もし自分が世界をまざまざと宿したすみれ草であると知れれば、安心立命することができるだろう。仏教が存在する意味が少しずつ分かってきた気もする。あれはやはり年寄りのための哲学なのだ。とってもややこしい論理の伽藍だが、一木一草にも仏が宿るという日本的なあり方は、じつは華厳からの流れなんだと知ることは、けっして無駄ではない。では、前にまた戻る。ベンヤミンは無駄で、華厳が無駄でない意味とはなにか。

詩を読むことの困難、そして快楽

小説家、書評家の丸谷才一が深刻な詩や意味の分からない詩を認めず、ライトバースだけを賞揚していたことを知って、いたく落胆した。そんな人だったのね、である。詩人たちからはわが陣営の人として取り扱われていたのではないだろうか。丸谷さんがどういおうと詩にはいろいろなバリエーションがあり、一向に構わないわけだが、一面の真理を衝いていると思うのは、日本の詩は余りにも変なところにはまって行き場を失っているのではないか、ということである。谷川俊太郎が大岡信との対談で、日本に輸入された詩は深刻派が多く、そこで変な勘違いが起きたのではないか、といっているのも、それと関連したことである。

ぼくは中学のころに詩を読み出し、迎合的な詩で公的な賞(といっても、大したものではないが)を取って恥じ入り、爾来、詩に触れるのを止めた。といっても、大学生になるともう読み始めているのだから、謹慎期間といっても数年にすぎない。きっかけは鈴木志郎康という詩人の詩に打たれたからである。『罐製同棲、または陥穽への逃走』別名「ぷあぷあ詩」との出会いである。あとで有名な詩群であることを知ったが、ぼくだけに書かれた秘密の手紙のようなつもりで読んでいた。岡田隆彦の『志乃命』にもガツンである。
思うに、その詩をいくら奨めても、くそ面白くもないと思う人はいる。詩にはさまざまな詩があって、自分に合う詩合わない詩があるのである。吉本隆明、清岡卓行など、いくら読んでも共感ができない。黒田喜夫、谷川雁も打ってこない。入沢康夫、天沢退二郎、長谷川龍生、山本太郎は読むが、好き嫌いの基準には入ってこない。岡田隆彦、飯島耕一、吉岡実、西脇順三郎といったところが好みで、統一性がない。若いころはまったく毛色が違う伊藤静雄の逆説的な詩にやられていた。もちろん、金子光晴の絢爛豪華な初期詩から世界と女を柔軟にうたった後記詩までも大いに好んだ。彼の中央公論社の全集は、黒い、布のような手触りの紙に金色の黄金虫が刻印されていた。本当に見事に美しい装幀だった(司修である)。賢治詩もぞっこんだった。朔太郎は漢詩風なのが先に好きになり、そのあとに初期の詩に共感を覚えるようになった。吉野弘、茨木のり子などの詩も読むが、倫理性みたいなものが苦手である。外国ならパウル・ツェラン、エリザベス・ビショップぐらいなもの。

詩が分からないという人がいるが、ぼくも同じである。ただ、自分に合った詩人がいるだけである。しかし、学校で詩を習うのはいいことだと思う。先に挙げた井伏の詩は、彼の散文「屋根の上のサガン」「山椒魚」を読んで触発されて読むようになった。高村光太郎、中也もそう。高村の「道程」、中也の「朝の歌」「サーカス」などは教科書で読んだのではなかったか。賢治の「永訣の朝」もしかり。そしてもちろん朔太郎の猫や群衆や異国憧憬や故郷をうたった詩も教科書で知ったはず。歌人でいえば、大学で斎藤茂吉に授業で出会い、それからずっと彼の短歌やエッセイを読み続けている。息子には彼の短歌の一つから名前を付けた。芭蕉、蕪村なども、何かあれば関連書を買って、読み続けている。いまじつにゆっくりと芭蕉の書簡集を読んでいる最中である。

コロナ禍で不要不急なことこそが大事、ふだんのあたりまえのことがとても貴重なことと気がついた。友と会うことも、映画も、芝居も、そして詩も。ビショップの詩から一篇を訳してみる。彼女をめぐる長い評伝を読んだことがあるが、精神を病んだ母親の問題が彼女にはいちばんの課題だったようだ。それと親戚の男性から性的な被害を受けている。彼女は大学生のころは男性の求愛に悩んだことがあるが、そののちは同性との愛を貫いている。Elizabeth Bishop The Complete Poems 1927-1979という詩集成の一部にPoems Written in Youthというのがあり、そのなかの1927年のTo a Treeという詩を訳してみたい。16歳、最初期の詩ということなる。もうすでにして彼女らしい詩になっているから、すごい。

  To a Tree
 Oh,tree outside my window,we are kin,
      For you ask nothing of a friend but this;
To lean against the window and peer in
     And watch me move about! Sufficient Bliss

For me,who stand behind its framework stout,
    Full of my tiny tragedies and grotesque grieves,
To learn against the window and peer out,
    Admitting infinities'mal leaves.

  一本の木に

  ああ、私の窓外の木は血縁みたいなもの
   だから私に何も求めない。でもこれだけは別――
  窓に身をもたせてよ、覗いてよ、私が動くのを見て! 何という喜び

  一方、頑丈な窓枠のかげに立つ私は、
           小さな悲劇とグロテスクな悲しみでいっぱい
  窓に身をもたせて、覗こうとして
   無限に小さな葉っぱにほれぼれしながら

ビショップはリアリスティック・シュルレアリスムと呼ばれることがある。その片鱗をこの詩は見せている。ジュリアン・ムーアが主演した「アリスのままで」という映画に、ビショップの「One Art」という詩が出てくる。認知症が進むことでさまざまなことができなくなっていくアリス、そのアリスが口にする救済の詩である。ぜひ興味のある方は、映画をご覧になってみてほしい。      

  
  

 

 

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