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いつも奇跡は起きていた3

救いの手

数年前のことだが、年も押し詰まって、あることで思い屈することがあった。毎晩、そのことが頭を離れず、ろくに眠ることができなかった。
それが、不思議なことにしばらく連絡もくれなかった人からメールが届き、彼がぼくの苦境に手助けしてくれることになった。またその後、それほど間を空けず、知人から知らせがあり、そのときに窮状をふと洩らしたところ、サポートするよ、と言われた。
またひと月も経ったろうか、ある人が大きな助けとなってくれた。ぼくはその連続に奇跡を見る思いだった。だが、好事魔多しで、次に何かの危機が来たときに、どうせまた幸運が降ってくると楽観視するようになった。そうなると、よくしたもので、奇跡は一切起きてこない。
ぼくの危機はどんどん深間にはまることになる。棚からぼた餅など、期待してはいけないし、もし僥倖があっても、たまさかのものだと観念すべきなのである。

読み差しの気になる本

つい同じ本を買ってしまうことがある。辻惟雄『奇想の系譜』が2冊、小林康夫『知の技法』2冊、モンテーニュ『エセー』2組、小林信彦『日本の喜劇人』2冊、富岡多恵子『漫才作者 秋田実』2冊……挙げていくとかなりになる。同じ映画を見ることはしょっちゅうだ。たいがい3分の2も過ぎたころに、ああこれ見た映画だと気づく。きっと最後まで気づかずに見ている映画もあるだろうが、それは損した気にはならない。
ある本を読んでも理解できなくて、読み差しておき、しばらく経ってまた読みを試みることがある。その本のことがすごく気になっていて、それを読み通せない自分が許せないのである。たとえば、大岡昇平『レイテ戦記』もう何度も読みが止まり、大西巨人『神聖喜劇』これも数回、『失われた時を求めて』何度か、柄谷行人『マルクス、その可能性の中心』これは数度目に読み通した、アドルノ『プリズメン』これも読み通した、柳田国男『海上の道』まだまだだ。
ぼくはきっと相性の問題だと思っている。自分のエリアに入ってこないけど、そこを知らないといけない、と感じているから、いつまでも再挑戦を繰り返すのだ、と。
別に文体の粉飾は要らない。事件の起きない、起伏のない作品でもいい。ぼくの琴線に触れるものであれば、読み通すことができる。しかし、その“琴線”がどういう仕組みになっていて、どういう対象に反応するのかが分からない。たとえば、大岡昇平の『天誅組』を読み出したが、すぐに「この小説は読み切る」ということが分かる。平坦な記述がしばらく続くが、ぼくにはとても身に沿った感じがする。これは井伏鱒二の『さざなみ軍記』という作品を高校生のときに読んでからずっと持ち続けている感覚のように思える。何も事が起きないけど、その静かな湖面の下には激しい感情が隠されている、といった感じの作品に弱い気がする。違うかなぁ……?

そういう意味では、島崎藤村の『夜明け前』など典型かもしれない。淡々としたなかで、次第に幕末という差し迫った時代の匂いや動きが感じられてくる。そして明治になって弊履のように捨てられた神道系の思想家たち、実行者たちの悲しい声が主人公の狂気の声となって響いてくる。読み進めているあいだ、馬込の街道筋に即して流れる川のせせらぎの音が確実にぼくの耳朶に届いてくるのである。

キムチ

キムチを手製で作り出してもう30年にはなるだろうか。かみさんがキムチ好きなのにニンニクが嫌いで食べられないので、じゃあニンニクなしで作ろうと始めたのである。ちょうど韓国映画にはまり始めたころでもあったので、キムチにはかなり入れ込んだ。新宿の韓国家庭料理の店にも頻繁に顔を出すようになった。沖縄料理のブームが去り、次は何かというときに、あちこちで韓国料理のことが話題になりだした。知らずにその流行に乗っていたことになる。焼肉ではなく、韓国家庭料理ブームである。
知人が韓国へ仕事を兼ねて旅行に行き、手土産にカセットテープを買ってきてくれた。聴くと韓国語のど演歌である。なんだ、日本のまねなんかして、と思った。しばらくすると、パチンコ屋をはじめ至るところで、そのカセットの中の一曲が流れるようになった。チョー・ヨンピル「釜山港へ帰れ」である。彼が向こうでは伝説的な歌手で、もとはロックをやっていた人間が地の歌に目覚め、パンソリ修行で声を潰し(血を吐くまで練習し、喉を鍛えるから、そうなる)、その凄まじい声でわれらを魅了したのである。
あとで日本の演歌の源流が向こうにあることを知り、大いに反省した。そのころには、チョー・ヨンピル日本公演がTVで放送されたり、大変なことになっていた。しばらく彼の名前を聞かないと、何か不祥事を起こしたというニュースが飛び込んできて、悲しいことだと思ったものである。

その当時はキムチの作り方をネットで調べるわけにもいかず、指南書もほとんどなかった。在日の人で知り合いがいたので、彼らの“わが家”の味を伝授してもらった。それで分かったのは海のそばに住んでいる人と山の中に住んでいる人でレシピが違うということである。地の漬物だから、そうなるのは当然なのに、一律のやり方があると思うほうがおかしかったのである。新宿歌舞伎町でお店をやっていた人の従業員からも、キムチの作り方を仕込んだ。彼らとよく昼飯を食べたものだが、必ずキムチ付きである。片栗粉で粘り気を出したり、赤い色を際立たせたくてニンジンのしぼり汁を加えたり、とんでもないことをしていたものだと思う。本当に試行錯誤の連続である。

この3年ほどは作り方はフィックスした感がある。一大転機は、すりごまをたっぷり使い始めたことである。突然、ひらめいたのである。あっありだな、と。餃子の具材にオイスターソースを入れるのを突然思いつき、数段おいしさが増したのと、同じ効果があった。結局、次のような手順と具材になる。
日干し1日→重しをして水出し(塩振り)一昼夜→大根、ニンジン、ニラ、長ネギ、塩辛を刻む→魚醬、ごま油、すりごま、かつお出汁顆粒、昆布出汁顆粒、はちみつ、韓国唐辛子2種類

もう薬味(ヤンニョン)を作るのは手慣れたものである。暮れになると出回る地元の小さいけど重たい、葉がびっちりと重なった白菜を買ってきて、晴れた日を選んで作業に取りかかる。といっても、ただ干して、それをまた一昼夜重しをのせて水出しするだけである。あとは一気にヤンニョンを作り、スプーンを使って一枚一枚それを塗り込んでいくだけである。いまのところ数人に定期的に送り、冬のあいだずっとキムチを作り続けていることになる。

ふだんから仲間と飲むときはぼくが料理係。数人前を10品種以上を作るので、花見、小旅行などの前日になると、なかなかに気ぜわしい。料理は食べると幸せで、それに目の前から消えてしまうことがうれしい。キムチ作りもまったく苦にならない。無償でやることがある、というのは精神的によろしい。 

キリストという男

もうだいぶ前になる。たしか河川敷で暮らす男性ホームレスが自らキリストと名乗り、そこらにたむろする青少年たちの相談事に乗ったりしていたのだが、次第に彼らの懲罰を受けるようになり、最後は殺された。ネットで調べても、よほど前のことなので、ヒットするものがない。ぼくにはのちのちまで妙にひっかかる事件だった。

途中まではたしか青少年たちには愛されていたはずだ。ところが、何でもいうことを聞くものだから、次第に軽い存在として蔑みをもって見られるようになった。しかし、彼は人々に奉仕する自分の役目を放棄しようとしなかった。その姿勢がまた行き場のない青少年たちにいい知れぬ焦燥感、そして反動として威圧的な心情を呼び起こしたのではないか、と思われる。

聖書に現われるキリストは磔の十字架の上で、神を呪っている。神よ、われをみそなわしたな、と。その絶望の深さは計り知れない。しかし、神をめぐる物語である書物のなかで、そういう涜神的発言を隠さず残していることにとてつもないすごさを感じる。基本的に聖書はたくさんの時間をかけて書かれ、編集されたものだろうから、この神を呪う箇所を残した意図を思うと、そら恐ろしいという気がする。それでは河川敷のキリストは最期、どんな言葉を発して息絶えたのであろう。

キリストの使徒たちはみな下層の出身であるという。彼自身が大工であり、当時の身分階層でいえば、やはり下層に属するといっていい。漁師、取税人であり、ルカだけは医者である。下層民が怪しげな教義を持ち出して、時の権力を脅かす存在にまでのしあがっていく。ある人はキリスト教とは、小さく押さえつけられた人々のためのものだというが、その位置付け自体が、反権力的である。ついには神殺しにまで至った河川敷の子供たちは、自分たちが抹消した者の意味が最後まで分かっていなかったと思われる。自分たちを救済してくれる機縁をなきものにしたーーそれがどれだけ取り返しのつかないことだったかに気がつかなかったのである。

ぼくは母にすまないことをしたと繰り返し悔やむことがある。日常的な光景ではあるのだが、母が亡くなってみれば、もう取り返しは永遠につかないのである。ぼくのなかでも解釈がいまだにつかずにいる。
田舎から父と遊びに来て、珍しく美味しいところに連れて行ってほしいと口にした。そういうことをふだんは言わない人で、ちょっと言ってみただけ、というニュアンスではあるのだが。
ぼくは調子に乗って、いいところがあるから連れて行くと言った。母は化粧も丁寧に、身だしなみにも気を配って準備をした。明るい緑色のワンピースを着こんで、小さな黒いバッグを持っていた。その姿がまだ眼裏(まなうら)にしっかりと残っている。
そしてぼくが連れて行ったのは、まちの焼肉屋、それもその頃流行り始めていた格安食べ放題のそれなのである。ぼくはその時の母や父の顔を思い出せない。自分が親をだましたことも忘れて、目の前のものを食べるのに忙しかったのだろう、きっと。

しばらく後で、かみさんが、ひどいことをしたわ、と言ったことで、ぼくは自分の犯した罪を知ったのである。次に遊びに来たときに、どこそこにいい店があるから、予約したいんだけど、と今度は本当の懐石料理のことを頭に思い描きながら誘ったが、母は二度と肯うことはなかった。われわれは小さな神殺しをついやってしまっていて、そのことに気付かずにいるのかもしれない。

余儀なくされる

MHKで安野光雅さんを扱っていた。再放送だと思うのだが、「旅の絵本」シリーズでとうとう日本、それもご自分のふるさとである津和野の風景を描きながら、過去のことも語る、というかたちになっていた。津和野を描きながら、じつはそれは日本に共通の原風景であると気づいた式のことを言っていた。『絵本 平家物語』も紹介され、その日本画調の絵に驚きを覚えた。さっさく簡易版を注文した(完全版は高いから)。

安野さんは狭心症に肺結核を患い、なかなか生きるのは大変だが、それが人生なのだとも思っていると言う。御年83歳のときの映像である(昨年暮れ、94歳で亡くなられた)。それで「余儀なくされても生きていく」という言葉を使われた。ぼくの使わない言葉だけに、新鮮でもあり、深い含蓄を感じた。前項で小さく押さえつけられた者という言い方をしたが、それとニュアンスは通いながら、たとえ苛酷な偶然に翻弄されようとちゃんと生きていこうとする姿勢をいっているように思う。そして、雲中一雁の言葉も口にした。雁は群れをなして目的地へ向かうが、一羽だけはぐれて後を追うものがいる。それが自分である、と安野さんは言っている。その字を書く様子を映していたが、まるで筆順など無視していた。字ももしかしたら子どもより下手かもしれない。でも、小さいころからずっと、絵を描いていればただ幸せだったという人が書くような字だった。

コロナで世界は変わらずにいない。東日本大震災にしても、確実にわれわれを変えているはずだが、まだそれが何であるか明確には見えない(ぼくが感度が悪いのかもしれない)。ポストコロナをめぐる論説で目立つと思うのは、弱さへの気づきである。文明のもろさもあれば、家族ひとり守り切れない無力感もある。じつは元々それを抱え込んで生きていたはずなのに、走り続けないと倒れてしまう一輪車のような生活を送るうちに、弱さに無感覚になっていたのではないか。
不要不急の何気ないことこそ大事だということも分かった。そこを基点にした新しい哲学が生まれるのであれば、それはとてもいいことだろう、と素直に思う。3.4%の人間が新しく気づけば、世界は変わるのだそうだ。コロナが覚醒させたのは、そんなヤワな割合ではない。世界は変わらずにおかないだろう。



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