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母からの手紙を全部捨てた日

 うちの母は、娘である私を大切にしている人だと思う。私がひとり暮らしを始めて数年たった今も、母からはメールや手紙がよく届く。

その手紙の山を、この間全部捨てた。もうきれいさっぱり、何も残っていない。
捨てる前に読み返しもしなかった。後悔もない。多分これからもしない。
でも、母が家に来た時にそれに気が付いたらどうしよう、とほんの少し思った。

別に私は母が嫌いじゃない。手紙も嫌いじゃない。ミニマリストでもない。
でも、捨てるに捨てられない「母からの手紙」というものがどうにも苦手だった。

「人からもらったもの」は一般的に、大切にすべきものと捉えられることが多いだろうし、私も基本的にそう思う。でも、同時に「ゆえに捨てられなくて困るもの」でもあると思う。捨てるということは、それを送ってくれた人への不義理や否定に感じられてしまうから。自分が非常な悪者のように感じられるから。
誰だって避けたいと思って当然の事態だ。

その中でも「母からの手紙を捨てる娘」なんて、不義理の表れにしか見えないかもしれない。

私だって悪者や加害者にはなりたくないし、親不孝もしたくない。でもその考えと「手紙を捨てること」に関連性があるか疑わしくなった。

たかが数十枚の手紙、たいしてスペースも取られないでしょう。断捨離なら他にもっと捨てるべきものがあるでしょう。手紙なんて時々読み返せていいじゃない。
そう思うでしょう。私もそう思う。

それでも手紙を捨てたのは、物理的なスペースではなくて気持ちの面で捨てる理由が見つかったからだと思う。

私は真面目な孝行娘だから、母の手紙は一生持ち続けるんだ。

なんて考え始めたら、まあしんどいんだもん。え、お前ずっと私の家にいるつもり? って手紙の束にガン飛ばしてしまう。
生涯私と共にあるものがある、それを手放したら加害者や不義理な人間になってしまう。そんな強迫めいた考えも生涯持ち続けることになる。
別に誰かにそういわれたわけでもないのに。
些細なものから勝手に束縛が生まれてるみたいでいやになった。
そういうわけで、私は「母からの手紙を捨てる娘」になったけど、後悔してない。手紙も固定観念もさようならだ。

手紙はばんばん捨てるけど孝行な娘、多分世界に何万人もいるだろうし。

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